いじめや差別の快感、本能に潜む闇に気づく勇気

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人間だもの、つい「楽」しちゃったっていいじゃない?~いじめ・差別の快感、その奥にあるもの~

皆さんは、「いじめ」や「差別」って聞くと、どんなイメージが湧きますか? 多くの人が「悪いこと」「許せないこと」と即座に反応するはずです。それは、私たちが社会生活を送る上で身につけてきた、とても大切な道徳観や倫理観のなせる業でしょう。しかし、もし、この「悪いこと」とされる行為の中に、人間が本能的に快感や楽しさを覚えてしまう側面があるとしたら? そんな、ちょっとドキッとするような視点を提起したのが、今回話題になっている@tori29umaiさんの投稿です。

@tori29umaiさんは、ご自身の経験を踏まえ、人間にはいじめや差別に楽しさや快感を覚える本能的な側面があるのではないかと推測しています。そして、自身がいじめられる側だった時に、加害者側はそれを「いじめ」と認識しておらず、「面白いから排除した」というスタンスだったと語っています。さらに、この人間が持つ「暗い部分」から目を背けずに、それを「メタ認知」、つまり自分自身を客観的に見つめ直すことの重要性を説いています。

この投稿、一見すると「そんなこと言っちゃダメでしょ!」って思う人もいるかもしれませんが、驚くほど多くの共感や賛同を集めているんです。それはなぜでしょうか? 今日は、この@tori29umaiさんの投稿を入り口に、心理学、経済学、統計学といった科学的な視点から、人間が持つ「いじめや差別に惹かれる側面」について、とことん掘り下げて考察してみたいと思います。難しく聞こえるかもしれませんが、大丈夫。できるだけ分かりやすく、皆さんの日常にも繋がるようなお話にしていきましょう!

■人間は「優位性」に快感を覚える?~進化心理学からのアプローチ~

まず、なぜ人間はいじめや差別に「楽しさ」を感じてしまうことがあるのでしょうか。この問いに答える鍵の一つが、進化心理学にあります。進化心理学では、人間の行動や心理の多くは、過去の生存や繁殖に有利だった形質が、遺伝子を通して受け継がれてきたものだと考えます。

ここで言う「生存や繁殖に有利」とは、具体的にどういうことか。それは、限られた資源(食料、安全な場所、パートナーなど)を巡って、他の個体よりも優位な立場に立つことです。集団で生活する初期の人類にとって、自分たちの集団が他の集団よりも力を持つこと、そして集団内部でもより高い地位を得ることは、自分自身や遺伝子を残す確率を高めることに繋がりました。

では、この「優位性」をどのようにして認識し、それを「快感」として感じるように進化したのか。心理学者のロバート・サポルスキーは、彼の著書『BEHAVE(ビーヘイヴ):行動の理由をさぐる』の中で、人間の行動の背景にある脳のメカニズムについて詳しく解説しています。

サポルスキーによれば、私たちが「快感」を感じる時、脳の報酬系と呼ばれる回路が活性化し、ドーパミンなどの神経伝達物質が放出されます。この報酬系は、生存や繁殖に有利な行動(例えば、美味しいものを食べる、安全な場所を見つける、仲間と協力する)をした際に強化されるようにできています。

そして、興味深いのは、この報酬系が「社会的優位性」を得た際にも活性化されるという点です。他人を打ち負かしたり、他人をコントロールできたり、あるいは他人よりも良いものを持っていたりといった状況は、進化的な観点から見れば「資源獲得能力が高い」というシグナルになります。そのため、脳はそういった「優位性」を「良いこと」「快感」として認識するようにプログラムされている可能性があるのです。

@tori29umaiさんが指摘する「面白いから排除した」という加害者の心理も、この進化心理学的な視点から見ると、ある種の「優位性の確立」や「集団内の秩序維持(自分たちの都合の良いように)」といった目的意識が、無意識のうちに働いていたのかもしれません。彼らにとって、いじめられる側は「自分たちの邪魔をする存在」「排除すべき対象」であり、その排除行為そのものが、一種の「ゲーム」や「達成感」に繋がっていた、という解釈もできるわけです。

■「自分は違う」という安心感の裏側~認知的不協和と防衛機制~

さて、@tori29umaiさんの投稿に寄せられたコメントを見てみましょう。@shinnari_nasubiさんは、「多くの人が自身のそういった側面をメタ認知することなく、@tori29umai氏のような発言に反論する状況に疑問を呈しています。」と述べています。これは非常に鋭い指摘です。

なぜ、私たちは@tori29umaiさんのような、人間が持つ「暗い側面」を指摘する発言に対して、反論したくなるのでしょうか? ここで登場するのが、心理学でいう「認知的不協和」と「防衛機制」です。

認知的不協和とは、人が自分の持っている二つ以上の信念や価値観、あるいは信念と行動の間に矛盾が生じた時に感じる不快な心理状態のことです。例えば、「自分は道徳的で善良な人間だ」という信念を持っている人が、「自分はいじめや差別に楽しさを覚える可能性がある」という事実(あるいはその可能性)に直面すると、この二つの間に不協和が生じます。

この不快な状態を解消するために、人は無意識のうちにいくつかの行動をとります。
1. その事実を否定する:「そんなことはない」「自分は絶対にそんなことはしない」
2. その事実を正当化する: (今回の場合、反論のコメントにあるように) 「それは相手が悪いからだ」「自分は相手を助けているだけだ」
3. その事実を無視する:考えないようにする

@shinnari_nasubiさんが指摘する「反論」は、まさにこの認知的不協和を解消するための行動の一つと言えるでしょう。自分自身が「道徳的で善良な人間だ」という自己イメージを守るために、「いじめや差別の快感」という、そのイメージに反する可能性を無意識のうちに否定したり、遠ざけようとしたりするのです。

また、@Cheese_Gyud0n氏の「『私はそうではない!』という反論こそが『道徳的尺度で他人の優位に立つのはとても気持ちがいい』という発言を裏付けるものだ」というコメントも、この認知的不協和の観点から見ると非常に的確です。反論することで、「自分は道徳的で、いじめや差別の快感に染まるような人間ではない」という優位性を確立しようとする心理が働いている、とも解釈できるわけです。

さらに、@thyrol(チロル)氏の「メタ認知しすぎると自身の考えか、悪い人間だと思われたくないがために作り出した考えなのか分からなくなることがある」というコメントも、この防衛機制の複雑さを示唆しています。私たちは、自分自身を客観視する(メタ認知する)ことで、自分の内面にある「都合の悪い部分」に気づいてしまうことがあります。しかし、その「都合の悪い部分」を受け入れることは、自己肯定感を揺るがすかもしれません。そのため、無意識のうちに「悪い人間だと思われたくない」という欲求から、本当の自分とは違う「より良い自分」のイメージを作り出してしまう、ということも起こりうるのです。

■「永久機関」としての道徳観~経済学的なインセンティブ~

@happiness_dodon氏がこの状況を「永久機関」と表現しているのも、なかなか的を射ています。これは、経済学のインセンティブ(誘因)の考え方と結びつけて考えると、より深く理解できます。

経済学では、人々はより大きな効用(満足感や利益)を得られる方へ行動すると考えます。ここでいう「効用」は、金銭的なものだけでなく、精神的な満足感や社会的地位なども含まれます。

「いじめや差別」という行為は、直接的な快感(優位性による満足感、支配欲の充足など)だけでなく、間接的な効用ももたらす可能性があります。例えば、集団内での結束を高めたり(「仲間外れ」を作り出すことで、内部の結束を強める)、自らの不安を軽減したり(自分より弱い存在を見つけることで、相対的な安心感を得る)といった具合です。

一方で、「いじめや差別は悪いこと」という社会的な規範や道徳観も、私たちにインセンティブを与えます。それは、「道徳的な人間である」という自己イメージを保ちたい、あるいは社会的に罰せられたくない、といった動機です。

ここに、@tori29umaiさんの投稿が投げかける問いがあります。もし、人間が本能的に「いじめや差別の快感」を求めてしまうのであれば、そして「道徳的でありたい」という欲求も同時に持っているのであれば、この二つの間で私たちは常に揺れ動くことになります。

「永久機関」という表現は、この「いじめや差別の快感」という「内発的動機」と、「道徳的でありたい」という「外発的(あるいは内発的)動機」が、絶えず互いに影響し合い、止まることなく回り続けている状況をうまく捉えていると言えるでしょう。人々は「いじめや差別の快感」に惹かれつつも、それを否定し「道徳的」であろうと努め、その「道徳的であること」自体からさらなる優位性や満足感を得ようとする。このサイクルは、まさに「永久機関」のように、終わりのない駆け引きを生み出しているのです。

■メタ認知の難しさ~「他人に優しく」の尊さ~

@Okami_Hituji氏の「メタ認知の難しさを指摘し、それがマス向けの議論の前提にはハードルが高すぎると述べています。」というコメントも、非常に現実的です。

メタ認知、つまり自分自身の思考や感情を客観的に認識する能力は、高度な心理的スキルです。私たちは日常的に、感情に流されたり、無意識のバイアスに囚われたりしています。それを一つ一つ「これは私の感情だろうか?」「これはなぜそう思ったのだろうか?」と分析していくのは、時間も労力もかかります。

例えば、@yukkies氏が「自分が気持ちいい時に違和感をチェックすべきなのに、多くの人がその逆をする」と述べているように、人間は「快感」を感じている時には、その快感の源泉にあるものを深く探ろうとはしない傾向があります。むしろ、「不快」な状況に直面した時に、その原因を分析しようとする場合が多いのです。

@toho_T氏の「精神的な潔癖さは土台を崩されるようなもので、仕方がない」という言葉も、このメタ認知の難しさを裏付けています。自分の内面にある「汚い部分」や「都合の悪い部分」に直面することは、自己イメージを大きく損なう可能性があります。そのため、無意識のうちにそれを避けようとし、結果として、客観的な自己認識(メタ認知)が難しくなるのです。

しかし、だからといって諦めてしまって良いのでしょうか? @thyrol(チロル)氏は、メタ認知の難しさを認めつつも、「自分を振り返り他人に優しくあろうとする意識を尊いと称賛しています。」。ここが、この議論の重要なポイントです。

たとえ完璧なメタ認知が難しかったとしても、自分の中に「そういう側面があるかもしれない」と認め、「だからこそ、他人に優しくあろう」と意識することは、非常に尊い営みです。それは、自分自身の不完全さを認め、それでもなお、より良い人間であろうとする、人間の精神の強さの表れと言えるでしょう。

@To_Hen氏の「自身の価値観で『悪』とみなすものが自分の中にあると認めることが、知恵ある人になるための第一歩」という言葉も、このメタ認知の重要性を示唆しています。自分の内面にある「闇」や「都合の悪い部分」を認めない限り、私たちは本当の意味での自己理解や他者への共感には至れません。

■「ワイみたいなモン」の謙虚さ~他者への畏怖~

@namasutepon氏の「『ワイみたいなモンが』という謙虚さのない人物への恐怖と、そういった人物が本質を見せると泣き出す様を見てみたいという感情を吐露しています。」というコメントも、人間心理の奥深さを示しています。

ここで言う「謙虚さのない人物」とは、おそらく、自分の内面にある「いじめや差別の快感」といった側面を全く認めず、「自分は絶対に正しい」「自分は道徳的だ」と一方的に断定するような人物を指しているのでしょう。そのような人物は、自分自身の不完全さを隠蔽し、他者に対して攻撃的になったり、自己中心的になったりする傾向があります。

「ワイみたいなモンが」という表現は、一見すると謙虚に見えますが、その裏には「自分はそういう存在だから仕方ない」「自分には甘えていい権利がある」といった、ある種の自己正当化や開き直りが隠れている場合もあります。本当の謙虚さとは、自分の限界や不完全さを理解した上で、なおかつ向上心を持ち続ける姿勢であり、単なる卑下や開き直りとは異なります。

@namasutepon氏が抱く「恐怖」や「泣き出す様を見てみたい」という感情は、そういった「見せかけの謙虚さ」や「自己正当化」に対する、ある種の嫌悪感や、あるいは「真実」を見たいという欲求の表れかもしれません。

■感情の先行と、論理の追いつかない現実

@A_Dead_Slimeeel氏の「情動が論理的思考に先行するため、自己を俯瞰しながら適切な行動をとることは人全てを対象とするには難しい」という指摘も、非常に重要です。

人間の意思決定や行動は、しばしば感情(情動)に大きく影響されます。例えば、怒りや恐怖といった強い感情に駆られた時、私たちは冷静な論理的思考ができなくなってしまいます。これは、脳の構造上、情動を司る扁桃体(へんとうたい)が、理性的な判断を司る前頭前野(ぜんとうぜんや)よりも先に反応するようにできているためです。

いじめや差別といった行為も、しばしば、その瞬間の感情的な衝動によって引き起こされます。相手に対する怒り、嫉妬、あるいは単なる「面白そう」という衝動。これらの感情が先行し、その後に「なぜそうしたのか」という論理的な説明(あるいは自己正当化)が続きます。

そのため、「自己を俯瞰しながら適切な行動をとる」ということは、感情に流されずに、常に冷静な判断を保つ必要があり、これは非常に高度な能力です。ましてや、これを「人全てを対象とする」となると、その難易度はさらに跳ね上がります。

@oniheysamurai氏が「前提を置くことで発言に気をつけられるようになり、あらゆる視点が大事だと述べています。」というのは、この「感情に流されない」ための工夫の一つと言えるでしょう。例えば、「自分はいじめや差別の快感に惹かれる可能性がある」という前提を置くことで、無意識のうちにそういった行動をとってしまうリスクを減らし、発言や行動に慎重になることができるのです。

■「気をつけよう」という意識の尊さ~人間性の探求~

@tukumo81氏の「人間は本能的にいじめや差別を行い、優位に立つことに快感を覚える生物であると踏まえなければならないと結論付けています。」という断定的な言葉は、この議論の核心を突いています。

もし、人間が本能的にそういった側面を持っているのだとしたら、私たちはその事実から目を背けるわけにはいきません。@EhZh1b氏が「いじめを悪いこととする価値観は後から獲得したものであり、本能的には楽しさを感じてしまうのではないか」と述べているように、私たちが社会の中で後天的に身につけた「道徳」や「倫理」は、時に、私たちの本能的な欲求と衝突します。

しかし、@tori29umai氏の「気をつけよう」という言葉、そしてそれに共感する人々の声は、この本能的な側面を認めつつも、それを乗り越えようとする人間の意志の強さ、そして「より善くあろう」とする姿勢を示しています。

これは、人間が単なる「本能の塊」ではなく、自らの行動を省み、より良い方向へと進もうとする「理性」や「倫理観」を併せ持った存在であることの証です。そして、その「気をつけよう」という意識そのものが、私たちが人間らしく生きる上で、最も大切にすべきものなのかもしれません。

■まとめ:知ろうとすること、そして受け入れること

@tori29umaiさんの投稿から始まったこの議論は、人間が持つ「暗い側面」や「本能的な衝動」という、普段は目を背けたくなるようなテーマに光を当てました。

心理学、経済学、統計学といった科学的な視点から見れば、私たちが「いじめや差別の快感」に惹かれる背景には、進化的な要因、認知的なメカニズム、そして社会的なインセンティブが複雑に絡み合っていることが分かります。

しかし、重要なのは、これらの科学的な知見を知った上で、自分自身の内面と向き合うことです。

「自分は、そういう側面を持っているかもしれない」と認めること。
「なぜ、そう感じてしまうのか」と、自らの感情や思考をメタ認知しようと試みること。
そして、たとえ完璧なメタ認知ができなくても、「だからこそ、他人に優しくあろう」と意識すること。

これらの営みこそが、私たちが「人間」として、より深く、より豊かに生きていくための鍵となるのではないでしょうか。

「自分はいじめや差別の快感に惹かれるような人間ではない!」と、強く反論したくなる気持ちも分かります。しかし、もしかしたら、その「反論」こそが、自分自身の内面にある、見たくない真実から目を背けさせているのかもしれません。

まずは、自分自身の「俗物」たる側面を認め、その上で、「せいぜい善人でいられるように努力」していく。この@Shggyfさんの言葉は、この複雑な人間心理を理解した上で、現実的に私たちが取りうる、最も賢明な姿勢を示しているように思えます。

このブログを読んでくださった皆さんも、ぜひ一度、ご自身の内面をそっと覗いてみてください。そこには、もしかしたら、あなた自身も気づいていなかった、驚くべき発見があるかもしれません。そして、その発見を恐れず、受け入れることから、本当の成長が始まるのですから。

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