京都府警はよくやったよ。
ほんまに。
SNSでは一部でボロカス言われていたけど— 犯罪学教室のかなえ先生@Vtuberです (@towanokanae1984) April 13, 2026
■ 痛ましい事件から学ぶ、捜査の「見えない努力」と「期待」の心理学
3月に行方不明となっていた小学生の男児が、京都府南丹市周辺で遺体となって発見されたという、あまりにも痛ましいニュースが飛び込んできました。この悲劇的な出来事を受け、SNS上では京都府警の捜査活動に対する一部批判の声が上がりました。しかし、こうした批判に対して、「犯罪学教室のかなえ先生@Vtuber」氏をはじめとする多くの方々が、警察の地道な活動を擁護し、その労をねぎらっている様子が伺えます。
「自宅付近の捜索で何も見つからず無能」といったSNS上の声に対し、かなえ先生は、今回の遺体発見が当初の捜査の見立てが正しかったことを証明したと指摘しています。一見すると「空振り」に見える捜査も、実は捜査の進展において非常に重要なステップであったというのです。これは、心理学における「確証バイアス」や「後知恵バイアス」といった認知の歪みと関連して考えると、より深く理解できます。
まず、「確証バイアス」とは、人は自分の持っている考えや仮説を支持する情報ばかりに注目し、それに反する情報を軽視したり無視したりする傾向がある、というものです。SNS上での批判者たちは、当初、警察の捜査が「うまくいっていない」という情報に触れ、それを補強するような意見に共感しやすかったのかもしれません。捜査の初期段階では、情報が錯綜し、限られた情報から「結果」を求めてしまう心理が働くこともあります。
次に、「後知恵バイアス」は、結果を知った後で、「やはりそうなると思っていた」「あの時こうしておけばよかった」と、あたかも最初から結果が分かっていたかのように考えてしまう傾向です。遺体が発見された後で、「自宅付近を捜索したことが無駄だった」という見方は、結果論から見ればそうなのかもしれません。しかし、捜査の初期段階では、あらゆる可能性を排除するために、最も可能性の高い場所から地道に捜索を進めていくのが常道です。この「見立て」が、結果的に外れたとしても、それは「無能」の証ではなく、むしろ、限られた情報の中で最善を尽くした結果と言えるのではないでしょうか。
かなえ先生が「空振りも捜査の進展における重要なステップであった」と擁護している点は、まさにこの「確証バイアス」や「後知恵バイアス」を打ち破る、科学的かつ合理的な見方と言えます。捜査において、ある地点を徹底的に捜索し、そこで何も見つからなかったという事実は、その地点の可能性を低く見積もることができるという「情報」になります。これは、捜査範囲を限定し、次に可能性の高い場所へとリソースを集中させるための、貴重なデータなのです。まるで、科学実験で仮説が否定されたとしても、それは新たな仮説を立てるための重要な知見となるのと同じです。
さらに、SNS上では、「遺体が発見され親元に返されたことは『頑張った』『見つかって良かった』」という声や、京都府警の捜索範囲の広さや活動への「感動」「感謝」を伝えるコメントが寄せられています。これは、心理学における「損失回避性」や「感情的同調」といった現象が関係していると考えられます。
「損失回避性」とは、人々は、同じ金額であっても、得る喜びよりも失う苦痛の方がはるかに大きく感じる、という傾向です。今回の事件では、当初、男児が行方不明になったことで、家族や地域社会は「失うかもしれない」という強い不安と恐怖に苛まれていました。遺体が発見されたことで、最悪の事態(例えば、発見されないまま時間が経過すること)を回避できたという安堵感は、計り知れないものがあります。この安堵感こそが、「見つかって良かった」という感情に繋がっているのでしょう。
また、「感情的同調」は、他者の感情に影響され、自分も同じような感情を抱く現象です。SNS上では、家族や地域住民の悲しみや不安、そして警察の懸命な捜査への感動や感謝といった感情が共有され、多くの人がそれに同調し、共感を寄せたと考えられます。特に、このような悲劇的な事件においては、人々は連帯感を求め、互いに支え合おうとする心理が強く働く傾向があります。
一方で、「警察のプロとしての活動を批判する風潮に対し、『なぜ叩けるのか訳が分からない』『SNSが先走りすぎ』といった疑問や批判的な意見も見られます。」この意見は、経済学における「情報非対称性」や、社会学における「集団心理」といった観点から分析できます。
「情報非対称性」とは、取引や交渉において、一方の当事者が他方の当事者よりも多くの情報を持っている状態を指します。警察の捜査活動は、その詳細が一般に公開されることはありません。捜査のノウハウ、証拠の収集、容疑者の特定など、我々一般市民が知り得ない多くの情報や専門知識が、捜査の現場には存在します。それにも関わらず、限られた情報や憶測に基づいて警察の活動を批判することは、この「情報非対称性」を無視した、あるいは理解しようとしない態度と言えます。
「SNSが先走りすぎ」という指摘は、「集団心理」や「情報爆発」といった現代社会特有の現象とも関連しています。SNSは、情報伝達のスピードが速く、不特定多数の人々が瞬時に意見を交換できるプラットフォームです。しかし、その反面、根拠の薄い情報や感情的な意見が拡散しやすく、冷静な判断が鈍ってしまうことも少なくありません。今回の事件においても、一部の批判的な意見が、感情的な共感を得て瞬く間に広がり、あたかもそれが「多数派の意見」であるかのように錯覚させてしまった可能性があります。これは、統計学における「サンプリングバイアス」にも似ています。SNS上で見られる意見が、実際の世論を正確に反映しているとは限らないのです。
「遺体発見は残念な結果ではあるものの、早期に発見されたこと、そして親元へ返されたことに安堵する声が多く、身元確認や死因究明、事件・事故の捜査が今後も進められることへの期待も示されています。」この部分からは、私たちの心の中にある「究極の欲求」が垣間見えます。それは、まず「安全」への欲求、そして「真実」への欲求です。
マズローの欲求段階説で言えば、「生理的欲求」や「安全の欲求」が満たされた上で、私たちはより高次の欲求を追求します。今回、行方不明の男児が無事発見されなかったことは、多くの人にとって、安全が脅かされた、あるいは失われたという感覚をもたらしました。遺体という形で発見されたことは、その悲劇的な結末を突きつけるものでしたが、それでも「早期に発見された」という事実は、さらなる不安や不確実性の増大を防ぎ、「まだ可能性があったのではないか」という希望を打ち砕くものではあったものの、同時に、これ以上苦しみ続けることがなかったという、ある種の「区切り」を与えたとも言えます。そして「親元へ返された」という事実は、物理的にも精神的にも、故人を本来あるべき場所へ戻してあげたいという、人間の根源的な願いが叶えられたとも言えるでしょう。
さらに、「身元確認や死因究明、事件・事故の捜査が今後も進められることへの期待」は、「真実」への欲求、つまり「なぜこのようなことになったのか」「犯人は誰なのか」といった、事件の真相を解明したいという強い願望の表れです。これは、人間の知的好奇心や、社会的な秩序を維持したいという欲求とも結びついています。不条理な出来事に対する説明を求め、犯人を特定し、法に基づいて裁くことは、社会全体の安心感や信頼感を回復させるために不可欠です。
「ボランティアの捜索を参加させなかった理由が、単なる行方不明ではなく殺人事件であった可能性を示唆する見解もある。」この点も、捜査の専門性と、そこで考慮されるべき「リスク」について深く考察する余地があります。
警察がボランティアの捜索を制限する、あるいは特定の段階まで参加させないという判断には、いくつかの科学的・論理的な理由が考えられます。まず、捜査の「証拠保全」です。殺人事件や重大犯罪が疑われる現場では、ボランティアの立ち入りによって、犯人が残した可能性のある証拠(指紋、DNA、遺留品など)が汚染されたり、破壊されたりするリスクがあります。これは、法医学や犯罪捜査学における基本的な原則です。
次に、捜査の「効率性」と「安全性」です。警察は、高度な訓練を受けた捜査員が、計画的かつ組織的に捜索を行います。ボランティアの参加は、捜索範囲の重複や、重要な手がかりの見落としにつながる可能性があります。また、捜索対象が危険な場所であったり、事件が現在進行形であったりする場合、ボランティアの安全が確保できないという判断も働くでしょう。
そして、最も重要なのは、捜査の「方向性」の判断です。警察は、限られた情報の中から、事件の性質(事故なのか、事件なのか、それとも別の要因なのか)を推測し、捜査の優先順位や手法を決定します。もし、当初から「殺人事件」の可能性が濃厚なのであれば、一般市民を巻き込むことによるリスクを最小限に抑え、専門家による専門的な捜査を優先させるのは、当然の判断と言えます。これは、統計学における「ベイズ的推論」にも似ています。初期の「事前確率」(今回のケースでは、単なる迷子や事故の可能性)が低いと判断された場合、それに固執するのではなく、「尤度」(殺人事件の可能性)が高いと判断されれば、捜査の重点をそちらに移していくのです。
総じて、今回の事件で明らかになったのは、残念な結果であったとしても、その背後には、警察による計り知れないほどの地道な努力と、専門的な知見に基づいた判断があったということです。SNS上での一部批判は、情報が断片的であったり、感情的な側面が強調されたりすることで生じやすい、現代社会における課題の一つと言えるでしょう。
遺体発見という結果を受けて、多くの人が京都府警の捜査活動を称賛し、引き続きの捜査への尽力を願っているのは、単に「頑張ったね」という感情論だけでなく、科学的・論理的な見地からも、その努力と判断が正当なものであったと理解されているからに他なりません。
私たち一般市民は、こうした事件を通して、捜査というものが、いかに複雑で、多くの困難を伴うものであるかを改めて認識する必要があります。そして、限られた情報の中で、日々、私たちの安全のために尽力してくれる警察官の方々の存在の大きさを、改めて心に留めるべきでしょう。
事件の全容解明には、まだ時間がかかるかもしれません。しかし、科学的なアプローチと、真実を解明しようとする強い意志があれば、必ず真相にたどり着くことができるはずです。私たちは、その努力を信じ、静かに、そして温かく見守っていくことが、今、求められているのではないでしょうか。そして、この痛ましい事件が、二度と繰り返されない社会を築くための教訓として、深く心に刻まれることを願ってやみません。

