【衝撃】「助けて」と意識あるのに…見捨てるしかなかった黒トリアージの過酷

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■トリアージの残酷な現実:なぜ「黒」と判定された命にも声があったのか

災害やテロといった、想像を絶するような緊急事態。そんな極限状況下で、医療資源が限られる中で、誰から、どのように救命活動を行うかを決めるための、非常に過酷なシステムがあります。それが「トリアージ」です。このシステムは、一人でも多くの命を救うために、医学的な知識と、そして何よりも冷徹な判断力が求められます。

私たちが普段、医療機関で目にするトリアージは、比較的穏やかな状況下で行われることが多いでしょう。しかし、今回議論されているのは、まさにその「トリアージ」の、あまりにも残酷で、私たちの感情を激しく揺さぶる側面、特に「黒」という判定にまつわる現実です。

「黒」と判定された人々。その響きだけで、私たちは「もう助からない命」というイメージを抱くかもしれません。しかし、今回共有されたエピソードは、そのイメージを遥かに超える、想像を絶する現実を突きつけてきます。それは、「黒」と判定された人々の中にも、意識があり、苦しみ、助けを求めている人がいた、という事実です。

■「黒」の定義、その裏に隠された重圧

まず、トリアージにおける「黒」の定義について、もう一度整理してみましょう。一般的には、「死亡」または「救命不可能」と判断された患者に付けられるタグです。しかし、今回の議論で示された「黒」の定義は、さらに広範で、私たちの理解を深めてくれます。

1. すでに死亡している
2. 現時点では生存しているが、助かる見込みがない
3. 現時点では生存しており、治療すれば助かる可能性もあるが、医療資源が全く追いつかず、対応する余裕がない

ここで注目すべきは、3番目の定義です。これは、患者自身には助かる可能性があるにも関わらず、外部の要因、つまり圧倒的に不足している医療資源によって、救命の対象から外されることを意味します。これは、医療従事者にとって、どれほど辛い判断を迫られるかを物語っています。

■想像を絶するエピソード:声なき声を聞き、無視せざるを得なかった現実

数々のエピソードの中でも、特に衝撃的だったのは、貝カルシウム氏が語った話です。それは、腰から下が失われているにも関わらず、その深刻な状況に本人が気づいていないまま、「なぜ助けてくれないのか」と訴えかけてきた患者の存在です。

この状況を想像してみてください。目の前には、助けを求めている人がいる。しかし、その人の命を救うために必要な医療資源は、他の、より助かる可能性が高い患者たちのために使わなければならない。つまり、この患者に手を差し伸べることは、他の誰かの命を諦めることを意味してしまうのです。

貝カルシウム氏は、この状況下で、救急救命士は一人でも多くの命を救うという使命を全うするために、助かる可能性のある赤や黄の患者への対応を優先せざるを得なかったと説明しています。亡くなろうとしている人に寄り添い続けることは、このシステムにおいては「できない」のです。即断即決が求められ、時には意識がある人の命を、システム上「諦める」という、倫理的、感情的に耐え難い選択を、医療従事者は下さなければならないのです。

このエピソードは、トリアージが単なる技術ではなく、人間の尊厳と、極限状況下での究極の選択を問う、非常に重いテーマであることを浮き彫りにします。

■心理学の視点:アドレナリン、認知の歪み、そして「生存バイアス」

なぜ、腰から下が失われていることに気づかないほどの状態でも、助けを求める声があがるのでしょうか。ここには、心理学的なメカニズムが働いていると考えられます。

まず、極度の外傷やショックを受けた際に、体内でアドレナリンなどのストレスホルモンが大量に分泌されます。これらのホルモンは、痛みを一時的に麻痺させたり、気分を高揚させたりする作用があります。いわゆる「アドレナリンラッシュ」と呼ばれる状態です。

このアドレナリンラッシュにより、患者自身は自身の身体の損傷を正確に認識できず、あたかも軽傷であるかのように感じたり、あるいは周囲の状況を正確に把握できないことがあります。そのため、「なぜ助けてくれないのか」という訴えは、本人の主観では切実なものですが、医療従事者の客観的な視点からは、救命の優先順位が低いと判断されることにつながるのです。

また、人間の認知には「生存バイアス」というものが働きます。これは、成功した例ばかりに注目し、失敗した例を見落としてしまう傾向のことです。トリアージの現場では、助かった人、助けられた人の声は、しばしば後世に語り継がれるかもしれません。しかし、救命されなかった人、諦めざるを得なかった人の声は、たとえそれが苦しみや訴えであったとしても、歴史の闇に葬り去られてしまうことが多いのです。

この「喋れる人は黒にはならない」という意見と、貝カルシウム氏の反論は、まさにこの認知の歪みや、状況の複雑さを示唆しています。喋れるということは、コミュニケーションが可能であり、意識があることを示唆しますが、それが必ずしも救命可能であることには直結しません。医療資源の限界、患者の病状の深刻さを、医療従事者は冷静に判断しなければならないのです。

■経済学の視点:限られた資源の最適配分というジレンマ

トリアージは、医療資源という「限られた資源」を、どのように「最も効果的に配分するか」という、経済学における「希少性」と「機会費用」の問題に直結します。

経済学では、希少な資源をどのように配分するかという問題に常に直面します。例えば、企業は限られた予算の中で、どの製品開発に投資するか、どの広告キャンペーンを展開するかを決定しなければなりません。個人の家計も、限られた収入の中で、食費、住居費、娯楽費などをどう配分するかを考えます。

トリアージの現場は、まさにこの経済学的なジレンマの極致と言えるでしょう。救急車、医療従事者、医薬品、手術室といった医療資源は、緊急時には圧倒的に不足します。この限られた資源を、誰に、どれだけ配分するか。この判断は、「機会費用」を伴います。ある患者に医療資源を投入することは、別の患者にその医療資源を投入できない、という機会を失うことを意味するのです。

トリアージのシステムは、この機会費用を最小限に抑え、より多くの命を救うという「効用」を最大化することを目指しています。つまり、限られた資源を投入しても救命の可能性が低い患者にリソースを割くよりも、救命の可能性が高い患者にリソースを集中させる方が、社会全体としての「生存者数」という効用は高まる、という論理です。

これは、非常に冷徹な計算であり、感情論を排した、合理的な判断に基づいています。しかし、その合理性の裏側には、救命されなかった個々の患者の「不幸」という、計り知れないコストが存在するのです。

■統計学の視点:確率、ベイズ統計、そして「予測」の限界

トリアージにおける判断は、統計学的な要素も多分に含んでいます。医療従事者は、患者の年齢、病状、既往歴、そして現場の状況などを総合的に考慮し、その患者が救命できる確率を無意識のうちに、あるいは意識的に推測しています。

例えば、ある種の怪我をした場合、統計的に生存率が何パーセントであるか、というデータが蓄積されています。トリアージの担当者は、これらの統計的知見を基に、目の前の患者の予後を予測します。

さらに、ベイズ統計学の考え方が応用されているとも言えます。ベイズ統計学では、事前の情報(事前確率)に、新たな証拠(尤度)を加えて、事後の確率(事後確率)を更新していきます。トリアージの現場では、患者の初期情報(事前確率)に、救急隊からの情報や、現場での迅速な検査結果(新たな証拠)を加味して、より精度の高い予後予測(事後確率)を導き出そうとします。

しかし、統計学的な予測には限界があります。どんなに確率が高くても、それはあくまで「平均的な傾向」を示すものであり、個々の患者にそのまま当てはまるわけではありません。予期せぬ合併症が発生したり、個人の身体的な反応が平均から大きく外れることもあります。

特に、9.11同時多発テロや、戦争の現場など、状況が刻一刻と変化し、情報が錯綜するような状況下では、統計的な予測モデルもその精度を大きく損なう可能性があります。それでもなお、医療従事者は、限られた情報の中で、最善の「予測」を行い、瞬時の判断を下さなければならないのです。

■歴史の証言:戦争、災害、そしてテロの現場で繰り返された悲劇

貝カルシウム氏が語ったエピソードは、決して特殊なものではありません。9.11同時多発テロの際の医療従事者の体験談、東北の震災、交通事故、そしてウクライナ戦争やベトナム戦争といった戦場でも、同様の過酷なトリアージが行われ、あるいは行われています。

これらの事例に共通するのは、人間の生命が、極限状況下で、あまりにも脆く、そして儚いものであるということです。下半身が失われているにも関わらず、アドレナリンの影響で痛みに気づかず、助けを求める声。あるいは、冷静に自身の状態を理解し、家族への連絡を願う人。その状況は、一人ひとり異なります。

秋葉原殺傷事件や、自殺未遂で身体が切断された人のケースも、同様の文脈で語られています。これらの事件は、人為的に引き起こされた悲劇であり、その現場もまた、トリアージという究極の選択を迫られる状況となりました。

■「黒」判定された声:無視せざるを得なかった医療従事者の葛藤

「黒」と判定された人々が、意識があり、助けを求めてくる状況は、医療従事者にとって想像を絶する精神的苦痛を伴います。彼らは、人命を救うという使命感を持って現場に立っています。しかし、その使命を果たすことができない、あるいは、ある意味で「諦めざるを得ない」状況に直面するのです。

これは、単なる感情的な辛さにとどまりません。彼らは、法的な責任、倫理的なジレンマ、そして何よりも、人間としての罪悪感に苛まれる可能性があります。なぜ、あの時、もっと何かできなかったのか。なぜ、あの声を聞き流さなければならなかったのか。

これらの問いは、現場で活動する医療従事者だけでなく、私たち一人ひとりにも投げかけられています。トリアージというシステムは、私たちが社会として、どのような価値観を共有し、いかなる犠牲を許容するのか、という問いを突きつけるのです。

■感情論では割り切れない、トリアージの「非情」なる論理

トリアージ、特に「黒」判定にまつわる議論は、しばしば感情論に陥りがちです。しかし、そのシステムは、感情論では割り切れない、非情な論理に基づいています。それは、限られた資源を、最も効果的に、そして最も多くの人命を救うために配分するという、冷徹な合理性です。

この合理性は、私たちが普段、倫理や道徳といった観点から重視する「個人の尊厳」や「平等」といった原則とは、必ずしも一致しません。トリアージにおいては、「最大限の救命」という、より大きな目標のために、個人の権利や感情が、ある程度「犠牲」にされることがあるのです。

これは、非常に難しい問題です。私たち人間は、感情を持ち、共感する能力を持っています。だからこそ、助けを求める声を聞きながら、手を差し伸べられない状況は、耐え難い苦痛を伴います。しかし、もし感情論に流されて、助かる可能性の低い患者にリソースを割き続ければ、結果として、より多くの人が命を落とすことになるかもしれません。

■私たちが学ぶべきこと、そして「次」への備え

これらの過酷な現実を知ることは、私たちに重い宿命を背負わせるかもしれません。しかし、それを知ることには、大きな意味があります。

まず、トリアージというシステムが、いかに過酷な状況下で、いかに困難な判断を伴うものであるかを理解すること。そして、その判断を下す医療従事者たちの、想像を絶する精神的負担に思いを馳せること。

次に、私たちが普段、当たり前だと思っている医療資源が、いかに貴重で、そしていかに有限であるかを再認識すること。そして、災害や緊急事態に備え、日頃から、地域社会や個人レベルで、どのような備えができるのかを考えるきっかけとすること。

例えば、自助・共助・公助という考え方があります。災害時には、公的な支援が届くまでには時間がかかる可能性があります。だからこそ、個人でできる備え(食料、水の備蓄、避難場所の確認など)や、地域社会での助け合い(共助)が重要になります。

さらに、医療体制の強化も、もちろん不可欠です。しかし、どんなに医療体制を充実させても、自然災害や大規模なテロといった、想定を超える事態には限界があります。だからこそ、私たち一人ひとりが、こうした「究極の選択」が起こりうる可能性を理解し、その上で、社会全体として、どのようなリスクを、どの程度許容するのか、という議論を深めていく必要があるのではないでしょうか。

トリアージの現場は、私たちに、生命の尊厳、限られた資源の配分、そして究極の選択という、非常に重く、そして複雑な問いを突きつけています。その現実を知ることは、私たちに恐怖を与えるかもしれませんが、同時に、より強く、より賢く、そしてより共感的な社会を築くための、貴重な教訓を与えてくれるはずです。

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