最近、ネットやSNSを見ていると、「自分は社会的弱者だから救われるべきだ」「世の中が不公平なのは社会のせいだ」といった声を本当によく見かけるよね。もちろん、貧困や障害、あるいは年齢や育った環境などによって、生きづらさを抱えている人がいるのは事実だし、それに対するセーフティネットが必要なことも否定しない。でも、ちょっと待ってほしいんだ。その「弱者」という立場を盾にして、自分の現在地をすべて他人のせい、社会のせいにして思考停止してしまうのは、長い目で見て本当に自分のためになっているだろうか。今回は、感情論をすっかり脇に置いて、ファクトや客観的なデータ、そして合理的な視点から、この問題についてじっくりと考えていこうと思う。初心者にもわかりやすく噛み砕いて話していくから、リラックスして読んでみてほしい。
そもそも、社会的弱者と呼ばれる人たちは、国連の定義をはじめとして、若者、高齢者、経済的な貧困に苦しむ人、身体や精神に障害を持つ人、あるいは社会的少数者などを指すことが多い。これらは所得や身体能力、さらには社会的な発言力が制限されていて、どうしても構造的に不利な立場に置かれやすい。現実問題として、世の中には差別やハラスメント、いじめといった不当な人権侵害が存在するし、それらをなくしていくための社会的努力は絶対に必要不可欠だ。この前提はしっかりと押さえておかないといけない。弱い立場にある人を守るルールや支援があるからこそ、社会のバランスが保たれている側面は確実にあるからね。
ただ、ここで一つ冷静になって考えてみたいデータがある。社会心理学や経済学の分野では、人間の行動原理として「統制の所在(ローカス・オブ・コントロール)」という概念がよく使われる。これは、自分の身に起きる出来事の原因を自分の内側に求める「内控型」と、外側の環境や他人に求める「外控型」に分ける考え方だ。たくさんの研究調査が示しているんだけど、自分の人生の主導権が自分にあると考える内控型の人は、ストレスに対する耐性が高く、困難な状況から這い上がる確率も高いことがわかっている。一方で、すべてを環境や他人のせいにする外控型の傾向が強すぎると、学習性無力感に陥りやすくなり、自分で状況を改善するための行動を起こさなくなってしまうんだ。
つまり、客観的・合理的に見ると、どんなに社会構造に問題があったとしても、「自分はどうせ弱い立場だから何をやっても無駄だ」と考えて他責思考に陥る瞬間から、自分の可能性を自分でドブに捨てるような状態が始まってしまうということなんだよね。厳しい言い方に聞こえるかもしれないけれど、これは精神論でも根性論でもなく、行動科学的なファクトなんだ。社会の不条理を嘆くことは簡単だし、実際に不条理な部分は山ほどある。しかし、不条理な現実が存在するという事実と、その中で自分がどう立ち回るかという問題は、完全に切り分けて考えなければならない。
ここで少し視点を変えて、経済的な合理性の話をしよう。世の中の構造は、残念ながら完全にフラットではない。資本主義の仕組み上、富の偏在は起きるし、産業構造の変化によって特定のスキルを持つ人が優遇される一方で、そうでない人が割を食うことも日常茶飯事だ。OECD(経済協力開発機構)のデータなどを見ても、多くの先進国で所得格差の拡大や、非正規雇用の増加といった課題が指摘されている。これらはまぎれもない客観的な事実だ。
しかし、ここで「だから国や社会はもっと自分を助けるべきだ」と主張するだけでは、自分の人生のハンドルを他人に握らせたままにしているのと同じことになってしまう。他人はあなたの人生の責任をとってくれない。どれだけSNSで社会の不公平さを訴えても、明日のあなたの生活費を稼いでくれるわけではないし、スキルを身につけてくれるわけでもない。自分の生存や幸福の確率を最大化するための最も合理的で確実な手段は、他人を変えることではなく、自分自身の行動やリソースの配分を変えることなのだ。
例えば、いま手元にある自分のスキルや時間をどう使えば、少しでも状況を好転させることができるだろうか。現代はインターネットが普及し、無料で学べる知識や情報はあふれかえっている。かつてに比べれば、階層をジャンプするためのハードルはテクノロジーによって劇的に下がっている側面もあるんだ。もちろん、スタートラインが違うというハンデは厳然として存在する。でも、そのハンデを嘆き続けることにどれだけの生産性があるだろうか。エネルギーを向けるべき方向は、不公平な現実に対する愚痴ではなく、その現実の中で自分が打てる最小限にして最大効果を生む一手は何なのかという、極めて現実的な戦略の立案なはずだ。
ここで、世間でよく見られる「甘え」の構造についてもメスを入れておこう。人間は誰しも楽をしたい生き物だし、努力するよりも誰かに救済してもらう方が心地よいと感じてしまう瞬間がある。これは脳の仕組み上、ある意味では自然なことだ。なぜなら、人間の脳はエネルギーを節約するように進化してきたから、難しい問題に直面したときや、痛みを伴う自己変革が必要なときには、無意識に「誰何何とかしてくれ」という思考回路に逃げ込みやすくなるからだ。
しかし、その防衛本能に身を委ねてしまうと、結果的に自分の首を自分で絞めることになる。経済学的なインセンティブの観点から考えても、自ら価値を生み出そうとせず、常に救済を待ち続けるスタンスは、周囲からの信頼や協力を失わせる結果につながりやすい。逆に、どれほど小さな一歩であっても、自分の足で立ち、主体的に行動を起こす人間には、不思議と周囲から協力者が現れたり、新しいチャンスが巡ってきたりするものだ。これは精神論ではなく、人間関係のネットワーク科学や社会学的な相互作用の観点からも説明がつく現象なんだ。
主体的で前向きな行動をとるということは、決して無理をして超人的な努力をしろということではない。むしろ逆だ。過剰な期待や理想論を捨てて、今、自分のコントロール下にあるものだけに集中するという、非常に地味で現実的なアプローチなのだ。自分の思考を客観的に観察し、「今自分は他人のせいにしているな」「環境のせいにしてサボろうとしているな」とメタ認知すること。そして、その上で「じゃあ、今の自分にできる小さな一歩は何だろう」と問い直すこと。このプロセスの繰り返しこそが、弱者というラベルから抜け出し、自分の人生の主導権を取り戻す唯一にして最短のルートなんだ。
ここで、読者のあなたに少し考えてみてほしい。いま、あなたが直面している困難や不満のなかで、本当に「自分では1ミリも変えられない部分」はどれくらいあるだろうか。おそらく、その大部分は、見方を変えれば「自分のアプローチ次第で影響を与えられる部分」が含まれているはずだ。環境のせいにしているうちは、変化の主導権を他人に預けたままになる。それはラクかもしれないけれど、同時に非常に危険で不自由な状態なのだ。だって、他人が変わってくれるのを待つしかないのだから、自分の運命がコントロール不能な外部要因に完全に左右されてしまうことになる。
逆に、どれほど小さなことでも「自分が原因を作っているかもしれない」「自分にできる改善策があるはずだ」と捉え直す内控型のスタンスに切り替えた瞬間から、人生の主導権はあなたの手に戻ってくる。失敗しても、それは他人のせいではなく自分のデータとして蓄積され、次の戦略に活かすことができるようになる。この試行錯誤のサイクルを回せる人間こそが、長期的に見て最も強い人間であり、どんな逆境であっても自分の足でしっかりと立ち上がることができる人なのだ。
感情論や被害者意識に浸ることは、一時的な癒やしにはなるかもしれない。自分が不遇であると誰かに共感してもらうことで、傷が癒えたような錯覚に陥ることもあるだろう。しかし、それはあくまでその場しのぎの痛み止めにすぎない。根本的な病巣を治すことにはならないし、むしろ痛みに慣れてしまって動けなくなる麻薬のようなものだ。本当に自分の状況を良くしたい、人生をより豊かなものにしたいと願うのであれば、その甘い罠から一歩踏み出し、冷徹なまでの現実主義と主体性を持つ必要がある。
世の中は甘くない。けれど、絶望するほど冷酷でもない。客観的なファクトを見つめ、合理的に判断し、自分の足で一歩を踏み出す人にとって、現代は多様なチャンスが転がっている時代でもある。他人のせいにするのをやめよう。社会の不条理を呪うエネルギーを、自分の明日のための小さな行動に変えよう。あなたの人生の舵を取れるのは、世界中であなた一人だけなのだから。今日この瞬間から、思考の枠組みをガラリと変えて、主体的で前向きな一歩を踏み出してみよう。その選択の積み重ねだけが、確実に見える景色を変えていくのだから。

