■言葉の勘違いが生むドラマと私たちの脳の仕組み
ネットを見ていると、時々すごく面白い言語のバトルを見かけますよね。小説家のサムハラさんがSNSで「射殺した」と書いたところ、「平安時代に銃なんてないだろ!」というツッコミが入り、そこから大論争に発展したという事件がありました。これ、外野から見ているとめちゃくちゃ面白いんですけど、実は人間の脳や心理、そして言葉の経済学がギュッと詰まった非常に深いテーマなんですよ。
サムハラさんの言い分としては、古語の「射殺《いころ》した」を意図していたということでした。これに対して、「いやいや、現代人なら『しゃさつ』って読んじゃうよ!」という意見や、「そもそも弓矢も『射る』んだから漢字としては間違っていない」という擁護派まで現れて、ネットのお祭りと化したわけです。
この一件、単なる言葉の読み間違え騒動として片付けてしまうのは、もったいない気がしませんか。なぜ私たちは一瞬で「銃で撃たれた」と脳内変換してしまうのか。そして、なぜ昔の言葉や漢字の読み方に対して、これほどまでに熱くなってしまうのか。心理学、認知科学、そして言語経済学のレンズを通して、このSNSのやり取りをじっくり分解してみると、私たちが普段いかに「省エネ」で言葉を処理しているかという驚きの事実が見えてくるんです。
■なぜ私たちは「射殺」を見ると銃を連想してしまうのか
まず認知心理学の観点から、この現象を紐解いてみましょう。人間の脳というのは、実はものすごい怠け者です。脳は体重のたった二パーセントほどの重さしかないのに、体全体のエネルギーの二十パーセントも消費する大食漢なんですね。だから、生き残るためにいかにエネルギーを使わないようにするか、常に省エネモードを探っています。
ここで登場するのが、心理学でいう「利用可能性ヒューリスティック」や「連想ネットワーク」という仕組みです。私たちは何か文字を見たとき、一文字ずつ丁寧にお辞儀をするように意味を理解しているわけではありません。過去の膨大な経験やメディアからのインプットをもとに、「この単語のあとに来る確率が高いのはこれだ!」と、無意識のうちに一瞬で確率計算をして意味を確定させています。
現代社会において、「射殺」という熟語が使われる文脈を思い浮かべてみてください。ニュースを見ても、ドラマを見ても、ネットのニュースフィードを眺めていても、「射殺」の二文字の隣には、ほぼ間違いなく拳銃やライフル、警察官といった現代の銃器が存在しています。統計的に見ても、現代の日本語において「射殺」という言葉が弓矢に対して使われる確率は、ゼロに近いと言ってもいいくらい低いでしょう。
脳のデータベースにおいて、「射殺」というノード(結節点)に最も強い電気信号で結びついているのは、間違いなく「銃器による死」なんです。だからこそ、サムハラさんがどれだけ平安時代という文脈を背景に描いていたとしても、読者の脳は勝手に「銃」という強力なプライミング効果を発揮してしまいます。プライミング効果というのは、あらかじめ受けた刺激が、あとの行動や認知に無意識に影響を与える心理現象のことです。
つまり、「平安時代に銃はない」とツッコミを入れた人は、自分の教養が足りなかったというよりも、脳の超高速な予測変換機能にまんまと引っかかってしまった被害者とも言えます。脳のシステムが自動的に「射殺=銃」というショートカットを選んでしまった結果、タイムラグなしで反射的にツッコミを入れてしまったわけです。
■言葉の経済性とコストのトレードオフ
次に、経済学的な視点からこのコミュニケーションのすれ違いを見てみましょう。経済学の基本概念に「トランザクション・コスト(取引費用)」というものがあります。これは、モノやサービスを売買するときにかかる手間や時間、お金などのコストのことですが、これを言葉のやり取り、つまりコミュニケーションにも当てはめて考えることができます。
言語経済学の分野では、言葉は「できるだけ少ない文字数や発音で、できるだけ多くの情報を正確に伝えるためのツール」として進化してきたと考えられています。これを「経済の原則」と言ったりします。送り手側としては、ルビ(振り仮名)を振るという行為は、文字数が増えるし、デザイン的にも手間がかかるため、いわば「コミュニケーションのコスト」が増えることになります。
サムハラさんの立場に立てば、「古語としての『いころす』を知っている読者であれば、文脈から察してくれるはずだ」という期待があったはずです。これは、送り手と受け手が共通の背景知識を持っているという前提に立つことで、お互いの言語コストを最小化しようとする心理が働いています。もしすべての言葉に細かくルビを振っていたら、文章のテンポは悪くなり、書く側のエネルギーもすり減ってしまいます。
一方で、受け手側の経済合理性はどうでしょうか。現代の読者は、日々膨大な情報量にさらされています。SNSのタイムラインには秒単位で新しい情報が流れてくるため、ひとつの文章にじっくりと時間をかけて脳のCPUをフル回転させる余裕はありません。受け手側にとって最もコストの低いアプローチは、「最も確率の高い一般的な読み方(しゃさつ)」で瞬時に意味をインプットすることです。
ここで、送り手の「表現のこだわりというコスト」と、受け手の「脳の処理を楽にしたいという省エネの欲求」が真っ向から衝突しました。送り手は「より豊かな表現世界を作りたい」という投資を行っているつもりですが、受け手にとってはそれが「予期せぬ認知のノイズ」になってしまったわけです。このズレが、ネット上での「教養があるかないか論争」という不毛な摩擦熱を生み出す原因になりました。
■漢字の歴史と私たちが失いつつあるもの
さらに統計や歴史のデータを交えながら、私たちが使っている日本語の変遷について考えてみましょう。そもそも「射殺す(いころす)」という言葉は、古事記や日本書紀の時代から存在するれっきとした大和言葉です。「射る(い)」に「殺す(ころす)」がくっついたもので、古くは矢だけでなく、飛び道具全般、あるいは動物を狙い撃つ行為に対して使われていました。
ところが、時代の変化とともに日本の武器の主流は弓矢から鉄砲、そして現代の銃器へと移行していきました。これに伴い、「射る」という動詞が持つ守備範囲もどんどん狭くなっていきました。現代で「射る」と言うと、せいぜい弓道を思い浮かべるくらいで、日常生活で私たちが「何かを射る」ことはまずありません。
統計的に言えば、ある言葉の使われる頻度(単語頻度)が下がると、その言葉が持つ派生語や古風な読み方もまた、人々の記憶のネットワークから徐々に消えていきます。認知科学の研究では、人間が一生の間に覚える語彙数や、その中でアクティブに使いこなせる語彙数には限界があることが分かっています。新しい情報や現代の生活に必要な言葉がどんどん脳のストレージを占拠していくため、古い言葉や使われなくなった読み方は、定期的にメンテナンスしないと「忘却の山」の底へと沈んでしまうのです。
「スーホの白い馬」の教科書を思い出した人や、漫画のセリフで知っていたという人たちは、偶然にもその古い言葉のデータベースへのアクセス権をまだ持っていたラッキーな少数派と言えます。しかし、それを基準にして「そんなことも知らないのか」と相手を断罪するのは、統計的なマジョリティとマイジョリティの認知の差を無視した暴論と言わざるを得ません。
言葉は生き物であり、時代とともに意味や読み方が変わっていくのは自然の摂理です。平安時代のリアルを追求したい小説家と、現代のスピード感の中で直感的に物語を楽しみたい読者の間には、どうしても超えられない「認知のギャップ」が存在しています。
■表現の工夫と私たちが手に入れるべき知恵
ここまで、心理学や経済学の視点から「射殺」の読み方を巡る論争を深掘りしてきました。結局のところ、この問題はどちらが正しいか間違っているかという白黒つけられる話ではなく、人間の脳の仕組みやコミュニケーションの限界が浮き彫りになった好例だと言えます。
小説家やクリエイター側からすれば、自分の表現したい世界観を正確に伝えるために、あえてマイナーな古語を使うことは表現の幅を広げる上で非常に重要なアプローチです。しかし、受け手がどのような認知のフィルターを通してその言葉を受け取るかという「相手の脳の特性」を少しだけ想像してあげることで、無用な誤解や衝突を防ぐことができます。
例えば、親切にルビを振ることは、受け手に対する認知のバリアフリーであり、コミュニケーションのトランザクション・コストを劇的に下げる効果があります。読者が余計なところで「えっ?」と立ち止まらずに、物語の世界にスッと没入できるようにする工夫こそが、プロの表現者に求められる配慮なのかもしれません。
一方で、私たち受け手側にとっても、自分の脳がどれだけ「現代の常識」というバイアスに囚われているかに自覚的になることは、非常に面白い知的なトレーニングになります。パッと見で「間違っている!」と脊髄反射でツッコミを入れる前に、「待てよ、この表現には何か別の背景や意図があるかもしれないぞ」と一歩引いて考える心の余裕を持つこと。それこそが、情報があふれる現代社会を賢く生き抜くための強力な武器になります。
言葉の持つ歴史の深さに思いを馳せると同時に、現代人の脳の省エネなクセをクスッと笑いながら受け止める。そんな視点を持ってみると、SNSのタイムラインで流れてくるちょっとした諍いも、人間観察の最高のアミューズメントに見えてくるから不思議です。
■今日からできる言葉と認知のアップデート
今回の騒動から私たちが学べる実用的な教養は、自分の頭の中にある「当たり前」を疑う力です。私たちは自分が使っている言葉や、その読み方が世界共通のスタンダードだと無意識に思い込んでしまいがちですが、それはあくまで現代という狭い時代と環境が生み出した偏った確率にすぎません。
もしあなたが文章を書く立場なのであれば、自分のこだわりと、読者の認知の負担のバランスを少しだけ意識してみてください。難解な言葉や古語を使うときは、相手が迷子にならないための優しい道しるべを用意してあげるだけで、読者との間に温かい信頼関係が生まれます。逆に、何かを発信する人の言葉に違和感を覚えたときは、すぐに否定するのではなく、「おや、この人はどんな背景や意図を持ってこの言葉を選んだんだろう?」と好奇のアンテナを伸ばしてみてください。それだけで、あなたの世界はぐっと広がります。
言葉は人と人をつなぐ架け橋であると同時に、お互いの脳の宇宙を覗き見するための最高にスリリングな装置です。次にネットで言葉の読み方論争に出くわしたときは、「お、今日も人間の脳の認知バイアスが元気に暴れてるな」と心の中でニヤリとしながら、その奥にある人間ドラマを味わってみてくださいね。

