大学に子供の忌引届を出したら、なんだかものすごく疑われてしまい、葬儀のスケジュールだけじゃなくて血縁関係の証明まで求められた、というエピソードがSNSですごい話題になっていたので、今回はこの事件を心理学と経済学、そして統計学のガッツリした科学的レンズを通して徹底的に深掘りしてみたいと思います。
子供が大学を休む理由として最も悲しいイベントであるはずの葬儀に対して、なぜここまで大学側は厳しい証明を求めてくるのでしょうか。最近の大学は冷たくなったのか、それとも何か別の深い理由が隠されているのか、一緒に紐解いていきましょう。
まずは人間の心理の裏側からこの現象を見てみることにします。心理学の世界には、私たちが他人の行動を解釈するときに陥りがちな面白いクセがたくさんあります。今回のケースでいうと、大学の事務担当者が長男やその親である投稿者に対して「もしかしたらサボるための嘘をついているんじゃないか」と疑ったわけですが、これには心理学でいうところの「基本の帰属エラー」と「不正に対する防衛機制」が深く関わっています。
人間は、目の前で起きた出来事の原因を、その人の状況ではなく、その人の性格や内面的な性質のせいにしてしまう傾向があります。これを心理学では基本の帰属エラーと呼びます。大学の窓口の人が「この学生はもしかして授業をサボるために嘘の葬儀を捏造している不真面目な人間かもしれない」と勝手に思い込んでしまうのは、まさにこのエラーの典型例です。本来であれば「今の大学は出席日数に厳格なルールがあるから、確認作業をマニュアル通りにこなさざるを得ない」という状況的な要因があるはずなのに、それを個人のモラルの問題にすり替えてしまうわけです。
さらに、心理学の分野では「不正のトライアングル理論」という有名な概念があります。これはアメリカの criminologist であるドナルド・クレッシーが提唱したもので、人が不正を働くだけの動機、機会、そして正当化の3つの要素が揃ったときに犯罪やルール違反が起きるというものです。大学の講義を休むということ自体は犯罪ではありませんが、単位が欲しい学生にとっては、授業をサボることは大きなインセンティブになります。つまり、サボりたいという「動機」があり、簡単に欠席をごまかせる「機会」があれば、人は嘘をついてしまうかもしれない。大学の管理者側としては、この「機会」を徹底的に潰すことで不正を防ごうという心理が働きます。
しかし、ここで経済学の視点を持ち込んでみると、もう少し違った景色が見えてきます。経済学の基本は「インセンティブとコスト」です。大学という組織がなぜそこまで厳格な証明書類、例えば戸籍謄本の提出まで求めるのかというと、そこにはコストとベネフィットの計算が働いているからです。
経済学には「取引コスト理論」という考え方があります。何かと何かを交換したり、ルールを適用したりするときには、それに伴う目に見えないコストが発生します。例えば、学生が本当に身内の不幸で休んだのかどうかを正確に確認するためのコストです。もし大学側が学生の言葉を全面的に信じて、一切の証明書なしで忌引を認めるとどうなるでしょうか。中にはそれを悪用して、単に遊びたいからという理由で休む学生が出てくるかもしれません。不正をする人が得をする社会構造になってしまうと、真面目に授業に出ている学生たちのモチベーションが下がり、全体としての教育の質の低下につながるという経済的な損失が生まれます。
大学側としては、不正によるモラルハザードを防ぐためのコストとして、学生側に証明書類の提出という「非金銭的コスト」を支払わせているわけです。戸籍謄本を取り寄せるには手数料がかかりますし、平日に役所に行く手間もかかります。この手間そのものが、嘘をついてまで忌引をごまかそうとする人に対する抑止力、つまり経済学でいう「ペナルティ」として機能しているというわけです。
とはいえ、今回のケースのように、通常の葬儀のスケジュールや挨拶状だけではなく、血縁関係の証明まで執拗に求めるのは、果たして経済合理的に見て正しいのでしょうか。ここで統計学とリスク管理のデータを思い浮かべてみましょう。
統計的に見て、大学生の年代の若者が祖父母や親の葬儀に参列する確率はどれくらいあるでしょうか。人生のライフサイクルにおいて、若年層が近親者を亡くす確率は、高齢者層に比べて圧倒的に低いです。データで見ると、この年代における忌引の発生頻度はそれほど高くありません。確率論的にレアケースであるからこそ、大学の事務システムもその例外的なイベントに対して柔軟なアルゴリズムを組むことができず、定型化された最も厳しいマニュアルをそのまま適用してしまった可能性があります。
統計学の検定において、「第一種の過誤」と「第二種の過誤」という非常に重要な概念があります。第一種の過誤とは、本当は無実であるのに「有罪」と判定してしまうエラーのことで、統計の世界では偽陽性とも呼ばれます。逆に、第二種の過誤とは、本当は違反しているのに「無罪」と見逃してしまうエラー、つまり偽陰性です。
今回の大学側の対応をこの統計的決定理論に当てはめてみると、大学側が恐れているのは圧倒的に「第二種の過誤」です。つまり、本当はサボりなのに忌引として認めて単位を与えてしまうというミスを何としても避けたいのです。その結果として、無実の学生を疑うという「第一種の過誤」を大量に犯すことになっています。つまり、本当は身内の不幸で心から悲しんでいる純粋な学生に対してまで「お前は嘘をついているかもしれないから戸籍謄本を持ってこい」と要求してしまうわけです。これは統計的なリスク管理としては組織の安全を守るために機能しているように見えて、人間関係の信頼という最も重要な資本をすり潰しているという意味で、非常に効率の悪いシステムエラーだと言わざるを得ません。
ここで少し視点を変えて、社会学や組織論の観点からも考えてみましょう。私たちが生きる現代社会は、あらゆる手続きがデジタル化され、マニュアル化され、そして冷徹なまでのリスク管理によって支配されています。かつては、学校や職場といったコミュニティには「信頼の貯金」のようなものがありました。「あの人が言うなら本当だろう」「そこまで疑うのは失礼にあたる」という、暗黙の了解や情緒的なつながりが組織を支えていました。
しかし、現代はどうでしょうか。SNSが普及し、ちょっとした不正や手抜きの情報が瞬時に拡散される時代になりました。組織は常に「コンプライアンス違反」や「不公平だという批判」に怯えています。ある学生が特例で簡単に休めたということが他の学生の耳に入ったとき、「自分は厳しい条件をクリアしたのに不公平だ」というクレームにつながるリスクを、現代の大学は極度に恐れています。つまり、大学が求めているのは人間味のある対応ではなく、誰に対しても完全に均一で、言い訳のできない機械的な公平性なのです。
この機械的な公平性は、一見すると差別がなくて素晴らしいものに思えるかもしれませんが、人間を個別具体的な存在としてではなく、単なる「処理すべきデータ」として扱う冷たさと表裏一体です。悲しみの中にある学生に対して、事務的な手続きの壁を何重にも積み上げることは、組織防衛の観点からは正解であっても、教育機関としてのメンタルケアの観点からは大いなる失敗と言えるでしょう。
では、このような現代社会のシステムの中で、私たちはどのように立ち回ればよいのでしょうか。ここからは、個人がこの情報過多で過剰に管理された社会を生き抜くための実践的な知恵について考えていきたいと思います。
まず大切なのは、組織のシステムの本質を理解し、感情的に消耗しないためのマインドセットを持つことです。大学の窓口で理不尽な書類を要求されたとき、私たちは「なんで自分を信じてくれないんだ」「なんて冷たいんだ」と怒りや悲しみを覚えます。これは当然の感情ですが、心理学的に見ると、その怒りは相手の人間性に向かうよりも、「この組織は今、こういうリスク管理アルゴリズムで動いているんだな」という構造的な問題として捉える方が、ストレスを圧倒的に軽減できます。
経済学的に言えば、私たちは組織という巨大なゲームのプレイヤーです。ゲームのルールが理不尽であっても、そのルールをハックするためのコストを最小限に抑える方法を考える方が賢明です。例えば、あらかじめ想定されるリスクに対して、どのような証明書類が求められるかを事前にリサーチしておくことや、感情的に反発するのではなく、「こういう規定なのですね、ではこれを用意します」と淡々とシステムを通過してしまう方が、無駄なエネルギーを使わずに済みます。
しかし、だからといって、すべての理不尽なルールにただ従い続けるのが正解かというと、決してそうではありません。統計データや個人の体験談がSNSを通じて共有され、多くの人が「それはさすがに厳しすぎではないか」と声を上げることで、社会全体の共通認識が形作られていきます。これこそが、集団的知性が組織の硬直性を変えていくプロセスです。
今回のSNSのやり取りでも、多くの人が自分の経験を持ち寄り、「うちの学校ではこうだった」「ここまでやるのは異常だ」と議論したことによって、何が一般的な水準で、何が過剰な対応なのかという社会的規範が再定義されました。声に出して共有することそのものが、硬直したシステムに対する強力なフィードバックループとなります。
ここで、読者のあなたに一つ問いかけてみたいのです。あなたが普段所属している職場や学校、あるいはコミュニティにおいて、何か「これって本当に意味があるのかな」と疑問に思いながらも、誰も疑わずに従っているルールはありませんか。慣習だからという理由だけで残っている無駄な手続きや、お互いを疑うことから始まる冷たいシステムに、知らず知らずのうちにエネルギーを奪われてはいないでしょうか。
心理学や経済学の視点を持つということは、ただ学術的な知識を増やすことではありません。それは、目の前で起きている理不尽な出来事や、不可解なルールの背後にある「構造」を見抜く目を養うということです。なぜ相手はそういう行動をとるのか、この組織はどういうインセンティブで動いているのか、その仕組みがわかれば、無駄に傷ついたり怒ったりすることが減り、よりスマートに自分の人生のコントロールを取り戻すことができるようになります。
今回の忌引届をめぐる騒動は、私たちがどのような社会に暮らしているのかを映し出す鏡のようなものです。効率とリスク管理を最優先するあまり、人間としての温かさや信頼が失われつつある現代において、私たちはシステムに飲み込まれることなく、しかし現実的に賢く立ち回るすべを身につけていく必要があります。
もし次に、あなたが何らかの組織から理不尽な証明や手続きを求められたときは、ぜひこの文章で紹介した心理学や経済学のレンズを思い出してみてください。「ああ、この人たちは今、不確実性を恐れてリスク管理のアルゴリズムを一生懸命回しているんだな」と一歩引いて観察してみる。それだけで、心の平穏を保ちながら、冷静に対処するための最善の方法が見えてくるはずです。
社会のシステムは一朝一夕には変わりませんが、そこに生きる私たち一人ひとりの認識が変わり、お互いの体験をシェアし、対話を重ねていくことこそが、より人間味のある温かい社会をつくるための第一歩となります。今日の記事が、あなたの日常のモヤモヤを少しでも晴らし、物事を科学的かつ客観的に見つめ直すための小さなきっかけになれば本当に嬉しいです。

