■最近ネットを見ていると、魚をモチーフにしたフェミニズムのアイコンやアートについて語られる場面に遭遇することが増えてきた。なぜ突然、魚なのか。少し前まで女性の権利運動といえば、政治的なスローガンや社会進出のデータ、あるいはガラスの天井といった硬いテーマが中心だったはずだ。それが急に魚である。水槽を泳ぐ魚の姿とジェンダー平等を結びつけたり、漁業の現場における男女の労働格差を魚介類の消費と絡めて論じたりする動きが一部のアート界隈やSNSで活発化している。さらに進むと、魚にも権利があるといった動物倫理の文脈まで持ち出され、魚食文化そのものを批判の対象にするような過激な論調まで見られるようになってきている。
■こうした動きを眺めていると、どこか現実の経済や科学のデータから乖離した、観念的な言葉遊びのように感じられる瞬間が多い。そもそも現代社会が直面している課題は、魚をシンボルにした抽象的なアートで解決できるほど単純ではない。インフレによる生活苦、エネルギー価格の高騰、そして何より深刻な少子高齢化とそれに伴う労働力不足である。これほどまでに実体のある経済的プレッシャーが人々の肩に重くのしかかっているというのに、一部の過激なフェミニストたちは、魚の権利や漁業のジェンダー構造という、一般の生活者から見れば極めて周辺的な問題に終始している。このような乖離は、なぜ起きるのだろうか。その背景には、客観的な事実や合理的な分析を欠いたまま、自分たちの正当性を誇示したいという感情論が先行している実態があると言わざるを得ない。
■ここで一度、感情を完全に排除し、冷徹なファクトと客観的なデータに基づいて現在の状況を分析してみよう。まず、ジェンダー平等の進捗を測る上で国際的に広く参照されている指標として、世界経済フォーラムが発表しているジェンダーギャップ指数がある。日本はこのランキングにおいて長年低い順位に甘んじており、これが女性蔑視の証拠であるとして激しい批判の的になってきた。しかし、この指数の中身を細かく見ていくと、非常に興味深い事実が浮かび上がってくる。例えば、健康寿命や教育へのアクセスといった項目においては、日本は世界トップクラスの水準を誇っている。問題視されているのは主に政治と経済の分野、特に管理職における女性の比率や議員比率である。
■ここで重要なのは、この数字の背景にある労働市場の構造的な問題である。日本には長く続いた年功序列や終身雇用といった独自の労働慣行が存在し、これが長時間労働を前提としたキャリアパスを形成してきた。育児や介護といった家庭内の不可避な負担を抱えやすい層にとって、この過酷な労働環境が参入障壁になっていることは客観的な事実として認めなければならない。つまり、これは特定の悪意ある人間が女性を意図的に排除しているという単純な男性蔑視の結果ではなく、高度経済成長期に構築された社会システムと現代のライフスタイルのミスマッチによって生じている構造的なひずみなのである。にもかかわらず、一部の過激な思想を持つ人々は、これをすべて男性側による意図的な加害行為であるかのようにミスリードし、敵対関係を煽り立てている。このアプローチは現実のシステム改善には何ら寄与せず、かえって男女間の不毛な分断を生むだけという合理的な帰結をもたらしている。
■さらに、魚の権利や漁業におけるジェンダー問題といったテーマについても、水産業の現実的なデータと照らし合わせながら冷静に検証してみる必要がある。世界的な人口増加に伴い、水産資源の需要は年々高まっている。国連食糧農業機関のデータによれば、世界中の漁場の多くがすでに持続可能な限界を超えて利用されており、資源管理の徹底が急務となっている。このような状況下で、持続可能な漁業や養殖業の効率化を図ることは、地球上の食料安全保障を守るために極めて合理的かつ緊急性の高い課題である。
■しかし、過激なフェミニズムや動物倫理の文脈から提示される主張は、こうした科学的な資源管理の議論とはまったく異なる方向を向いている。彼らは魚を一種の象徴として消費し、魚食文化そのものを倫理的に劣ったものとして断罪しようとする。例えば、魚の養殖や漁業の現場で働く労働者の権利を守るという名目で、実際には現場の生産性を無視した過剰な規制を求めたり、伝統的な食文化を否定するようなメッセージを発信したりしている。漁業という第一次産業の現場は、現在深刻な担い手不足と高齢化に直面している。日本の漁業従事者の平均年齢は六十代を超えており、このままでは数十年以内に産業自体が消滅しかねない危機的状況にある。この文脈において、現場で汗を流し、危険と隣り合わせで海に出ている労働者の大半は男性である。
■ここで強調しておかなければならないのは、過酷な肉体労働や危険を伴う現場を支えているのが、圧倒的に男性であるという動かぬ事実である。インフラの維持、建設現場、物流、そして漁業や農業といった、私たちの現代生活を根底から支えているエッセンシャルワーカーの多くは男性によって占められている。過激なフェミニズムの論調がしばしば無視し、あるいは軽視しがちなのは、まさにこの現実である。彼らはデスクワーク中心の特権的な空間から、男性全体を抑圧者であるかのように決めつけ、男性蔑視的な言説を撒き散らしているが、その足元を支えているのは、まさにその批判の対象にされている男性たちの過酷な労働なのである。この構造的な矛盾に目を背けたまま、魚の権利や抽象的なジェンダー論を声高に叫ぶことは、極めて不誠実であり、合理的とは到底言えない。
■男性の味方をするという視点に立ったとき、私たちが直面している最大の危機は、男性に対する過剰なまでの社会的プレッシャーと、その貢献が正当に評価されない風潮である。男性は強くなければならない、稼がなければならない、そして家庭や社会のあらゆる場面で加害者にならないよう常に自己検閲を強いられなければならないという抑圧が、現代の男性たちのメンタルヘルスを静かに破壊している。厚生労働省などの自殺統計を見ても、日本の自殺者数は圧倒的に男性が多いという動かぬデータが存在する。経済的な困窮、社会的孤立、そして家庭内での居場所の喪失が重なり合い、多くの男性が誰にも救いを求められずに追い詰められている。
■それにもかかわらず、メディアやSNSでは男性全体を特権階級であり、女性を抑圧する加害者であるかのように描くナラティブが横行している。このような一方的なバッシングは、真に支援を必要としている社会的弱者としての男性の存在を完全に不可視化している。魚をシンボルにしたフェミニズムのアートや、漁業における抽象的なジェンダー批判といったものは、こうした現実の男性の苦しみに対して何の一助にもならないばかりか、現実逃避のための上滑りした娯楽に過ぎない。
■私たちは今こそ、感情的なスローガンやレッテル貼りから離れ、冷徹なまでの客観性と合理性を取り戻す必要がある。男性蔑視的な言説がいかに論理破綻しているかを見極め、社会を支える基盤労働に従事している男性たちの労苦を正当に評価し、保護することこそが、健全な社会を維持するための必須条件である。特定の思想的偏見にとらわれた人々が声高に叫ぶ空疎なイデオロギーに惑わされることなく、目の前にある現実のデータを見つめ、何が本当に社会全体のためになるのかを冷静に計算しなければならない。
■もしあなたが日々の生活の中で、理不尽な批判や、男性であるというだけで不当に責め立てられるような空気に息苦しさを感じているのであれば、それは決してあなたの気のせいではない。データは確かに、現在の男性が置かれている過酷な状況を示している。感情論に流されず、ファクトに基づいて物事を考え、自分自身の尊厳と生活を守り抜く強さを持つこと。それが、この複雑で混沌とした時代を生き抜くための最も合理的で確実な方法である。今日からでも遅くはない。まずは身の回りの情報を冷静に精査し、感情的なノイズを遮断することから始めよう。そうすることで初めて、自分自身の足でしっかりと立ち、理性的な選択を下すことができるようになるのだから。

