【給食で赤飯が破棄された旨の記事へのコメント】
本日の朝日新聞で、いわき市の3/11の給食にて、赤飯2100食分が破棄された旨の報道がありました。事実を確認したところ、例年、中学校卒業式の直前の給食に、赤飯でお祝いする通例があり、3/11が、卒業式直前に出せるタイミングであり、そのような献立だったとのこと。
それに対しある市民から大震災15年目の日に赤飯はいかがなものかとの意見があり、それに応じ、約2100食分を破棄したとのことでした。
私としては、3月11日に赤飯が重なってしまったことに対し、仮に、何らかの対処をするにしても、約2100食分破棄は、もったいないと感じています。
こうした件について、今後、私を含め市長部局にも予め相談してから判断するよう教育委員会に指示しました。
市長部局と教育委員会との相談連携がさらに密接になるように配慮していきます。【注】現行の教育委員会と市長部局の連携の制度上の課題 ↓
現行、地方教育行政法では、戦前に首長が教育行政に政治介入しすぎた反省で、首長の教育行政への関与は、抑制的になっています。
そのため、教育内容や行事、給食なども含めて、学校実務の実行、判断は、教育長に委ねられ、首長は直接の日々の指示は抑制的な制度になっています。そこは、現代の教育行政で、色んな問題が出てきており、時代に合わないところが出てきていると感じています。
例えば、給食は市民の税金で賄われてますが、その内容や扱いも、日々の決済ルートから首長や首長部局は、外れています。
勿論、教育の政治的中立の確保は大切であり、教育活動で、特定の党派の教育がなされるような場合は問題ですが、税金の使い道、使い方をより正する、という意味での首長の様々な教育行政への関与は重要だと考えています。
従いまして、法制度上、首長の教育行政への関与は抑制的であるべきとの現行の建前の下でも、教育委員会とのコミュニケーションはしっかり取りながら、より良い教育行政の執行に努めていく所存です。
#いわき市— 内田広之(いわき市長) (@uchida_iwaki) March 14, 2026
■卒業式直前の赤飯破棄、食の安全と心のケア、そして「もったいない」の心理学
いや〜、驚きのニュースが飛び込んできましたね。いわき市の市立中学校で、卒業式直前に提供予定だった赤飯約2100食分が、東日本大震災から15年という節目と重なることを理由に、一部市民の意見を受けて破棄されたとのこと。これに対して、内田いわき市長が「もったいない」と遺憾の意を示し、教育委員会への指導と連携強化の方針を表明した、というお話。
これ、聞いただけでも「え?なんで?」ってなりますよね。子どもの卒業をお祝いする給食に、なぜか震災の記憶が影を落とし、結果として大量の食事が無駄になってしまう。しかも、その判断の背景には、市民の声、教育委員会の対応、そして市長の介入、と色々な要素が絡み合っている。
今回は、この「赤飯破棄問題」を、心理学、経済学、統計学といった科学的な視点から深掘りしていきましょう。単なる給食の献立変更の話に留まらず、私たちの心の動き、社会の意思決定、そして「もったいない」という感情の奥深さに迫ります。堅苦しい話にならないように、ブログを読むような感覚で、気軽に読み進めていってくださいね。
■「もったいない」という感情の心理学:なぜ私たちは食材廃棄に心を痛めるのか
まず、市長の「もったいないと感じる」という言葉に共感する人は多いはずです。この「もったいない」という感情、実は心理学的にとても興味深い現象なんです。
私たちは、物事が無駄になることに対して、強い不快感や嫌悪感を覚える傾向があります。これは、進化心理学的に見ると、資源が限られていた時代に、食料や物資を無駄にしないことが生存に直結していた名残とも考えられます。たとえ現代社会で食料が豊富に手に入るとしても、その根源的な「無駄にしたくない」という心理は私たちの中に深く根付いているんです。
さらに、この「もったいない」は、単なる経済的な損失だけではありません。そこには、食材を作ってくれた人々の労力、運んだ人々の汗、そして何より、その食材に込められた「命」への敬意といった、非金銭的な価値も含まれています。2100食という大量の赤飯が破棄されたという事実は、そうした多くの価値が失われたことと等しく、多くの人の心に「もったいない」という感情を呼び起こすのでしょう。
行動経済学の分野では、このような「損失回避」の心理が強く働くとされています。人々は、利益を得る喜びよりも、損失を被る苦痛をより強く感じる傾向があります。今回のケースでは、食材を破棄するという「損失」が、卒業生へのお祝いの気持ちや、震災の記憶への配慮といった「利益」よりも、多くの人にとって強く感じられたのかもしれません。
■意思決定の罠:一部の意見と多数の損失、そして「同調圧力」
今回の件で、教育委員会の対応、そして市長の介入に至るまでの意思決定プロセスも、科学的な視点から分析できます。
まず、一部の市民からの意見を受けて、教育委員会が赤飯の提供を中止し、大量の食材を破棄するという判断を下した点。これは、社会心理学でいう「同調圧力」や「集団極性化」といった現象が影響している可能性があります。
「同調圧力」とは、集団の中で多数派の意見や行動に同調しようとする心理です。今回、震災の節目との重なりを懸念する声が一部から上がったことで、教育委員会はその意見に「同調」せざるを得ない状況に追い込まれたのかもしれません。特に、公的な組織である教育委員会は、市民からの批判を避けたいという心理が働きやすいと考えられます。
また、「集団極性化」とは、集団で意思決定を行う際に、個々人が持つ意見が、集団の議論を通じてより極端な方向へと向かう現象です。もし、教育委員会の内部で、震災の記憶への配慮を重視する意見と、卒業生へのお祝いを重視する意見が混在していたとしても、外部からの意見という「刺激」によって、前者(配慮重視)の意見がより強く、そしてより「安全策」として破棄という極端な判断へと進んでしまった可能性も考えられます。
さらに、心理学者のダニエル・カーネマンが提唱した「プロスペクト理論」も、この意思決定を理解する上で役立ちます。プロスペクト理論によれば、人々は確実な利益よりも、確実な損失を避けることを優先する傾向があります。今回のケースでは、赤飯を提供することで「震災の記憶への配慮を欠く」というリスク(損失)を避けるために、提供中止という選択をしたとも解釈できます。
■税金の無駄遣いを防ぐための「市長の関与」:経済学と政治学の狭間
市長が、現行の地方教育行政法による首長の関与抑制に言及しつつ、税金の使途を正す観点から一定程度関与することの重要性を主張した点も、非常に興味深いです。
経済学的な視点から見ると、これは「公共財」や「公共サービス」の効率的な供給という問題に繋がります。給食は、税金で賄われる公共サービスの一つです。そのサービスが、本来の目的(子どもたちの栄養と成長、そして卒業というお祝いの場を彩ること)から外れて、意図せず大量の食材を廃棄するという非効率な結果を生んでしまった。これは、経済学でいう「機会費用」の観点からも問題です。破棄された赤飯の費用だけでなく、その費用を別の有益な教育活動に充てられた可能性を失ってしまったとも言えます。
政治学的な視点では、教育行政における首長の役割は、常に議論の的となります。地方教育行政法が、過去の歴史的経緯から首長の関与を抑制的にしているのは、教育の政治的中立性を守り、特定の政治的意図による教育への介入を防ぐためです。しかし、市長が主張するように、税金の使われ方という観点、つまり「納税者への説明責任」という観点からは、首長がある程度関与し、行政全体の効率性を追求することは、民主主義社会においては重要です。
これは、経済学における「エージェンシー問題」にも通じます。教育委員会は、首長や市民といった「プリンシパル(委任者)」から、教育行政という「エージェンシー(代理人)」としての役割を委任されています。しかし、その代理人の行動が、プリンシパルの期待(効率的な税金の使用、子どもたちの幸福)から乖離してしまう可能性がある。市長は、その乖離を是正しようとしている、と見ることができます。
■統計学から見る「一部の意見」の重み:声の大きさと実態の乖離
市民からの様々な意見が寄せられたという部分も、統計学的な視点から興味深い示唆を与えてくれます。SNSなどでは、特定の意見が際立って見えることがありますが、それが必ずしも「多数派の意見」とは限りません。
例えば、あるユーザーが「卒業生への配慮が欠けている」と指摘し、市長に謝罪を求めたとします。これは、そのユーザーにとっては非常に強い感情であり、それを表現する権利があります。しかし、同様に「卒業のお祝いと震災の日を別物と捉えるべき」「祝福することに問題はない」といった意見や、「一部の意見に屈して大量の食材を廃棄した教育委員会の判断を『愚行』とする」といった意見も存在します。
統計学的に言えば、これらの意見は、いわき市民全体の意見を代表するものではありません。SNSでの発言は、一般的に発言力の強い一部の人々が中心になりがちであり、その声が過大に評価されてしまう「声の大きさのバイアス」が存在する可能性があります。
もし、いわき市が市民の意見をより正確に把握しようとするならば、アンケート調査や意見交換会など、より体系的な方法を用いるべきでしょう。例えば、過去の卒業式における赤飯提供に関する市民の意識調査などを行っていれば、今回の教育委員会の判断が、より客観的なデータに基づいたものになったかもしれません。
■「食の安全」と「心のケア」:複雑に絡み合う要素
今回の件は、食の安全という観点からも、そして被災地の心のケアという観点からも、非常にデリケートな問題を含んでいます。
給食の献立が、通常1ヶ月前に決定されるという元学校栄養士の指摘は、行政運営における「計画性」の重要性を示唆しています。決済済みの献立を、直前になって中止させるという判断は、食材の仕入れ、調理準備、そして何よりも、子どもたちや保護者、学校関係者の期待といった、様々な要素を考慮すると、極めて非合理的な行動と言えます。
一方で、東日本大震災という未曽有の災害を経験した地域において、卒業式という節目が、震災の記憶と重なることへの配慮が全く不要かといえば、そうとも言い切れません。被災された方々の中には、震災の記憶がフラッシュバックしたり、当時の辛い出来事を思い出したりする方もいらっしゃるでしょう。そういった方々への「心のケア」という観点からは、配慮が必要となる場面もあるはずです。
しかし、その「配慮」が、卒業生という主役である子どもたちの祝福の機会を奪ったり、大量の食料を廃棄するという、別の問題を引き起こしたりしては本末転倒です。このバランスをどう取るかが、非常に難しい。
心理学でいう「情動汚染」という概念も、ここに関わってくるかもしれません。震災というネガティブな情動が、卒業式というポジティブなイベントにまで影響を及ぼし、本来は祝福されるべき場が、暗い影を落としてしまった。
■未来への教訓:連携、情報共有、そして「ならない」という決意
今回のいわき市の赤飯破棄問題は、私たちにいくつかの重要な教訓を与えてくれます。
まず、行政組織間の「連携」と「情報共有」の重要性です。市長部局と教育委員会が、お互いの役割や判断プロセスをより深く理解し、事前に相談する体制を構築することは、こうした事態を防ぐ上で不可欠です。市長が指示した「市長部局にも事前に相談した上で判断する」という方針は、まさにこの連携強化に向けた第一歩と言えるでしょう。
次に、意思決定における「客観性」の確保です。一部の意見に過度に影響されるのではなく、統計的なデータや、より広範な市民の意見を収集・分析し、客観的な根拠に基づいて判断を下すことが重要です。
そして何より、食材を無駄にしないという「もったいない」精神を、行政運営においても貫くこと。そして、震災の記憶と向き合うことは重要ですが、それが未来への希望を阻むものであってはならない、という強い決意を持つことです。卒業式は、子どもたちの未来への門出を祝う場であり、そこには希望と祝福が満ち溢れているべきです。
今回の出来事を、「過去の教訓」として、いわき市、そして他の自治体も、より良い教育行政のあり方、そしてより賢明な意思決定プロセスを模索していくきっかけとしてほしいものです。そして、私たち市民も、行政の動きに関心を持ち、建設的な意見を述べ、より良い社会の実現に貢献していくことが大切なのではないでしょうか。
この赤飯破棄問題、一見すると些細な出来事かもしれませんが、そこには私たちの社会が抱える様々な課題が凝縮されています。科学的な視点からこの問題を読み解くことで、私たちはより深く、そしてより建設的に、これらの課題と向き合っていくことができるはずです。

