萩尾望都「救いのなさ」と「美しさ」に魂を奪われる!号泣必至の傑作SF漫画

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■萩尾望都作品に漂う、抗いがたい「救いのなさ」と「美しさ」の秘密

最近、SNSなどで「萩尾望都先生の作品って、なんであんなに救いがないのに美しいんだろう?」という話題が盛り上がっているのを目にしました。BL小説や漫画を読んでいるうちに、ふと萩尾先生の作品群が脳裏に浮かんだ、という方の投稿が発端でしたね。その方は、無人の惑星に永遠に取り残されたり、報われない恋の果てに何度も死を繰り返したり、親に殺される運命から逃れられなかったり…といった、想像を絶するほど過酷で、読者の心をえぐり取るような物語に触れながらも、それらを「美しい」と表現しています。この感覚、共感する人がものすごく多かったんです。「わかる!」「きついのに、なぜか何度も読み返したくなるんだよね」といった声が続々と集まってきて、萩尾作品の持つ独特の魅力について、多くの人が同じような感覚を抱いていることが浮き彫りになりました。

特に、萩尾先生は「BLの元祖」とも言われるほど、後の作品に多大な影響を与えてきた方です。その根源的な部分に、今回話題になった「救いのなさ」と「美しさ」の要素が深く根ざしているのかもしれません。今回は、この萩尾作品に共通する、読者を惹きつけてやまない「救いのなさ」と「美しさ」の秘密を、心理学、経済学、統計学といった科学的な視点も交えながら、じっくりと紐解いていきたいと思います。専門的な話も出てきますが、できるだけ分かりやすく、ブログを読むような感覚で楽しんでいただけたら嬉しいです。

■なぜ私たちは「救いのなさ」に惹かれるのか?:心理学の視点から

まず、「救いのなさ」に惹かれるという現象、これって一体どういう心理が働いているんでしょうか?一見すると、私たちは幸福や安心を求める生き物だから、わざわざ不幸な物語に触れるのは矛盾しているように思えますよね。しかし、心理学の世界では、ネガティブな感情や体験に触れることには、いくつかの重要な役割があると考えられています。

ひとつは、「感情の浄化(カタルシス)」効果です。アリストテレスが提唱したこの概念は、悲劇などを通して怒りや憐れみといった感情を追体験することで、それらの感情が解放され、精神的な安定を得られるというものです。萩尾作品のような、登場人物が極限の状況に置かれ、苦悩する姿を追体験することで、私たち読者は自分の中にも抱える不安や悲しみといった感情を、安全な場所で、物語を通して解放しているのかもしれません。現実ではなかなか経験できないような極限の悲劇に触れることで、普段抑圧している感情が癒される、という感覚ですね。

また、「恐怖管理理論」という考え方もあります。これは、人間は根源的な「死」への恐怖を抱えており、それを紛らわせるために、文化的な信念体系(物語や芸術など)にすがるという理論です。萩尾作品の登場人物が迎える壮絶な最期や、永遠に続く孤独といったテーマは、まさにこの「死」や「有限性」といった、人間が避けられない根源的な恐怖に直結しています。それらの物語に触れることで、私たちは間接的に「死」というものと向き合い、自分自身の生の意味を再確認する機会を得ているとも言えます。一見暗く思える物語が、実は私たちに「生きる」ことへの肯定感を与えてくれる、という逆説的な効果です。

さらに、心理学には「ネガティブ・プライミング」という現象もあります。これは、ネガティブな情報に触れることで、その後のポジティブな情報に対する知覚や評価が高まるというものです。萩尾作品の強烈な「救いのなさ」に一度触れた後、日常の些細な幸せや、物語のわずかな希望の光が、より一層輝いて感じられるようになる。つまり、敢えて暗闇に身を置くことで、光のありがたみをより深く認識できるようになる、というわけです。

■「救いのなさ」が「美しさ」に転化するメカニズム:認知的不協和と美的感覚

では、なぜその「救いのなさ」が、単なる不快な体験に終わらず、「美しさ」として私たちの心に響くのでしょうか?ここには、心理学における「認知的不協和」の理論が関係してくるかもしれません。認知的不協和とは、自分の持っている信念や価値観、行動などが、矛盾している状態にあるときに生じる不快感のことです。

萩尾作品は、しばしば「救いのない悲劇」という、私たちの持つ「物語はハッピーエンドであるべきだ」とか「主人公は報われるべきだ」といった、無意識の期待や価値観と矛盾する要素を含んでいます。しかし、その矛盾した状況(救いのない物語が美しい)に直面したとき、私たちはその不快感を解消するために、矛盾を乗り越えようとします。その結果、私たちは物語の持つ別の側面、例えば登場人物の繊細な心情描写、絵の持つ繊細なタッチ、あるいは物語の構造そのものに、より強く惹きつけられるようになるのです。

例えば、『スター・レッド』でエルグが抱える宿命と愛。読者は、エルグが報われない恋に苦しみ、過酷な運命に翻弄される姿に心を痛めながらも、その純粋さや、彼が愛にすべてを捧げる姿そのものに、一種の崇高さや美しさを見出すのではないでしょうか。「愛以外、全部あげる」というマージナルの言葉は、その究極の形を示唆しています。そこには、損得勘定では測れない、人間の感情の深淵があり、それが私たちの心を揺さぶるのです。

また、人間の美的感覚は、必ずしも「完璧な幸福」だけを求めるものではありません。むしろ、苦悩や葛藤、そしてそれに立ち向かう人間の姿に、深い感動と美しさを見出すことがあります。ギリシャ悲劇しかり、シェイクスピアの四大悲劇しかり、名作と言われる作品には、しばしば悲劇的な要素が含まれています。これは、人間の「不完全さ」や「有限性」を受け入れた上で、それでもなお美しくあろうとする営みに、私たちは本質的な美しさを見出すからかもしれません。萩尾作品は、この人間の根源的な美的感覚に訴えかけていると言えるでしょう。

■「数」で見る、萩尾作品の魅力:統計学と経済学の視点から

さて、ここからは少し、統計学や経済学の視点も交えて、萩尾作品の魅力について考えてみましょう。

まず、SNSでの反応を統計的に見てみると、ある作品名が頻繁に挙がっていることに気づきます。『スター・レッド』、『酔夢』、『銀の三角』といった作品です。これらは、萩尾作品の中でも特に「救いのなさ」と「美しさ」が際立っていると評されることが多い作品群です。もし、SNSでの言及数をカウントし、その頻度を分析したら、これらの作品が読者の心に強く刻まれていることが、データとしても裏付けられるはずです。

さらに、経済学でよく使われる「効用」という考え方で萩尾作品を捉えてみるのも面白いかもしれません。効用とは、財やサービスを消費することによって得られる満足度や幸福感のことです。通常、私たちは効用を最大化するように行動しますが、萩尾作品の場合、その「効用」は、必ずしも直接的な幸福感だけではありません。

例えば、困難な状況に置かれた登場人物への共感から得られる「感情的な効用」、物語の難解さや深淵さに触れることで得られる「知的な満足感」、そして、その「救いのなさ」を乗り越えた後の達成感や解放感から得られる「カタルシス的効用」などが複合的に作用していると考えられます。これらの「効用」は、短期的な快楽とは異なりますが、読者にとっては長期的に見て、非常に大きな満足感(効用)をもたらしているのでしょう。

また、「希少性」の原理も関係しているかもしれません。もし、世の中に「救われる物語」ばかりがあふれていたら、萩尾作品の持つ「救いのなさ」は、単なる不幸な物語として埋もれてしまうかもしれません。しかし、多くの物語が「救い」を提示する中で、あえて「救いのなさ」を提示する萩尾作品は、その希少性ゆえに、読者の注意を引きつけ、強い印象を残すのです。これは、経済学における「希少性」が価値を高めるという原理にも通じます。

■具体的な作品群から読み解く、萩尾ワールドの深淵

では、具体的にどのような作品が、この「救いのなさ」と「美しさ」を体現しているのでしょうか。いくつか挙げてみましょう。

■『スター・レッド』:宿命に抗う愛の輝き

『スター・レッド』は、まさに「救いのなさ」と「美しさ」の宝庫と言えます。エルグという主人公が背負う宿命、そして彼が抱く愛。大人になってから読み返すと、子供の頃には気づけなかった、より深い人間ドラマや、普遍的なテーマが浮かび上がってくるという感想は、この作品の持つ時間と共に深まる味わいを物語っています。

「無人の惑星に永遠に取り残された彼のこと、いまでもたまに思い出します」という言葉は、読者の心に深く刻まれた、エルグの孤独と絶望を物語っています。しかし、その絶望の中にも、彼が愛する人へ向ける想いや、過酷な状況下での彼の行動には、胸を打つような美しさがあります。マージナルの「愛以外、全部あげる」というセリフは、この作品のテーマを象徴しています。そこには、損得勘定や自己保身といったものすべてを捨て去り、ただひたすらに愛に生きようとする、人間の究極の選択が示唆されています。これは、功利主義的な考え方(最大多数の最大幸福)とは対極にある、極めて個人的で、しかしだからこそ普遍的な人間の感情のあり方を示していると言えるでしょう。

■『酔夢』:運命のループと、それでも惹かれ合う魂

『酔夢』は、文庫版では『半神』に収録されている短編です。この作品で描かれる「運命の恋人の死の運命を交換しながら永遠にループする」という設定は、まさに萩尾作品の真骨頂とも言える「救いのなさ」を極端な形で表現しています。しかし、その救いのない設定こそが、「鬱で好き」という読者の心を掴むのです。

この物語は、時間や因果律といったものが、登場人物たちの運命の前では無力であることを示唆しています。何度繰り返しても、変わらない悲劇。しかし、その中で登場人物たちが互いに惹かれ合い、苦悩する姿は、たとえ絶望的な状況であっても、人間の魂が求める繋がりや愛の形を浮き彫りにします。最近の作品である『ジークアクス』の世界観が『酔夢』を彷彿とさせるとの意見もありますが、これは萩尾作品に一貫して流れる、人間の生や運命に対する深い洞察が、時代を超えて受け継がれている証拠と言えるでしょう。

■『銀の三角』:少女漫画の枠を超えた、SFの金字塔

『銀の三角』は、少女漫画でありながら、SF漫画としても傑作と名高い作品です。多くのユーザーから「一生揺るがない」「最高のSF漫画」と絶賛されるこの作品は、少女漫画というジャンルの枠を超え、萩尾望都という作家の持つ才能の幅広さを示しています。

ラグトーリンの歌に言及する声があることからも、この作品が持つ独特の世界観への没入感の強さが伺えます。物語の展開や、登場人物たちの関係性は、確かに時に過酷で、読者を不安にさせる要素を含んでいます。しかし、その緻密に構築された世界観と、登場人物たちの切実な想いが織りなすドラマは、読者を物語の世界に深く引き込み、忘れられない体験を与えてくれます。少女漫画的SFの最高峰と評される所以は、単なるSF的なガジェットや設定に留まらず、人間の感情の機微を丁寧に描き出す、萩尾作品ならではの視点にあるのかもしれません。

■「救いのなさ」のその先に:読後感に宿る「開放感」

一方で、今回話題になった中には、「私にとっては全部救われるラストなんです」「物語としての開放感がすごい」といった、作品の持つ別の側面からの解釈も提示されていました。これは非常に興味深い視点です。

確かに、物語の結末が悲劇的であったとしても、その物語全体を通して、読者が登場人物の心情に深く共感し、彼らの苦悩を追体験した上で、最終的に物語が「完結」したという事実そのものが、読者に一種の達成感や解放感をもたらすことがあります。これは、心理学でいう「完了性(Pragnanz)」の原則にも通じるかもしれません。私たちは、未完了なものよりも、完了したものに対して、より満足感を得やすい傾向があります。

萩尾作品は、たとえ結末が悲劇であっても、その物語の構造や、登場人物たちの心情描写が非常に丁寧であるため、読者は物語に「没入」し、ある種の「完了」を体験します。その結果、読後には、悲劇的な内容でありながらも、不思議な「開放感」や「納得感」が残るのでしょう。これは、単に不幸な話を聞かされて終わるのとは全く異なる、高度な読書体験と言えます。

■まとめ:萩尾望都作品が私たちに与える、抗いがたい魅力

萩尾望都作品に漂う「救いのなさ」と「美しさ」。これらは、単なる偶然や、作者の個性として片付けられるものではなく、心理学的なメカニズム、人間が持つ根源的な感情、そして物語の構造といった、様々な科学的見地から考察することで、その深層に迫ることができます。

読者は、萩尾作品に触れることで、自らの感情を安全に解放し、生や死といった普遍的なテーマと向き合い、そして、たとえ過酷な状況下でも美しくあろうとする人間の営みに感動を覚えます。そして、物語の「完了」によって得られる解放感は、読後感に独特の余韻を残します。

「救いのない」物語だからこそ、私たちはそれに深く共感し、何度も読み返したくなる。それは、私たちが現実世界で直面する不確実性や困難さ、そしてそれでもなお「生きる」という営みに、萩尾作品が真摯に向き合っているからこそ、読者の心に強く響くのではないでしょうか。

BLの源流にまで影響を与えたとされる萩尾作品の魅力は、まさにこの「救いのなさ」と「美しさ」の絶妙なバランスの中にあり、それが、時代を超えて多くの読者を魅了し続けているのだと言えるでしょう。もし、まだ萩尾作品に触れたことがない方がいらっしゃれば、ぜひ一度、その独特の世界に足を踏み入れてみてください。きっと、あなたの心にも、忘れられない感動と、新たな発見があるはずです。

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