シリコンバレーは間違ったものを生んだ?「非物質化」する日常を感覚で取り戻す

テクノロジー

テクノロジーが織りなす現代社会で、私たちは本当に「生きている」実感を得られているのだろうか? シリコンバレーの光り輝く未来像とは裏腹に、私たちの日常から、かつて当たり前だった「手触り」が失われつつある。作家、デザイナー、学者として多角的な視点を持つイアン・ボゴスト氏が、その著書『The Small Stuff: How to Lead a More Gratifying Life』で投げかける問いは、我々テクノロジー愛好家にとっても、深く考えさせられるものがある。

■感覚を失う「非物質化」という名の静かな侵食

ボゴスト氏が提起する「非物質化」という概念は、非常に示唆に富む。これは、単に物理的なモノがデータ化し、クラウドに移行していくといったITの進化だけを指すのではない。もっと根源的な、私たちの五感と現実世界との繋がりが希薄になっていく様相を捉えている。彼の筆は、マニュアル車(MT車)の衰退という、一見すると些細な出来事から始まる。

考えてみてほしい。かつて、車の運転は、ギアチェンジの感触、クラッチの踏み応え、エンジンの鼓動といった、全身をフルに使った感覚的な体験だった。しかし、オートマチック車(AT車)の普及、そして今や主流となりつつある電気自動車(EV)では、トランスミッションという「魂」が失われつつある。アクセルを踏めば滑らかに加速するだけの、まるでゲームのコントローラーを操作するような感覚。そこに、かつての「運転する」という行為の持つ、ダイナミックな手触りがあっただろうか?

この「非物質化」は、車だけに留まらない。私たちの生活空間を見渡せば、それは枚挙にいとまがない。例えば、空港のトイレ。自動で開閉するドア、センサーで感知して出てくる石鹸や水、そして自動で乾くハンドドライヤー。かつて、自分でドアノブを操作し、石鹸を泡立て、自分の手で水を流していた行為は、今や機械に委ねられている。そこには、自分の身体が空間に働きかけ、それに対して物理的な反応が返ってくる、という、生々しい体験があった。しかし、それが「非物質化」し、私たちの感覚は、これらの「働きかけ」から切り離されてしまったのだ。

ボゴスト氏は、この原因を「利便性テクノロジー」と名付けた。確かに、テクノロジーは私たちの生活を格段に便利にした。しかし、その代償として、私たちは日常生活の「質感」を、気づかぬうちに失ってきたのかもしれない。そして、この「非物質化」は、テクノロジーだけが原因ではないと彼は指摘する。官僚主義、効率性への過度な追求、経済的な論理、そして時に私たちの自由を制限する規制。これらすべてが、私たちが実際に生活している物理世界から、私たちを遠ざける要因となっているのだ。

■「小さなこと」に宿る、深い「満足感」

ボゴスト氏が、テクノロジー業界を批判する多くの書籍から一歩踏み込んでいるのは、その視点の転換にある。彼は、富の不平等や資本主義といった、あまりにも壮大で、普通の人々には重すぎる問題の解決を待つのではなく、今、この瞬間に、日々の生活の中に「満足感」を見出すことに焦点を移している。

「富の不平等や資本主義を解決しなければ、人生を十分に体験できるようにならない」と言うのは、あまりにも大きなハードルだ。しかし、ボゴスト氏は、「普通の人々は、その時を待つ必要はないのです」と力強く語る。これは、希望のメッセージだ。私たちは、社会全体が劇的に変わるのを待つ必要はない。私たちの身近にある「小さなこと」の中に、人生を豊かにする鍵が隠されているのだ。

彼の興味の原点は、前述したMT車の話だが、そこからさらに掘り下げていくと、トースターやスムージーといった、ありふれた日常的なものへと広がっていく。そして、彼はこの「ありふれた人生」こそが、深く、深く意味があることに気づいたのだ。

MT車のような、象徴的かつ現実的な意味を持つものは、私たちの感覚世界への窓を開く。それは、単なる移動手段という機能を超え、運転手と機械との対話、一体感、そして時には挑戦といった、多様な感覚体験を提供する。この「行うことの経験」こそが、私たちの生の実感を高めてくれるのだ。

■進歩とのトレードオフ、そして「カエルが茹でられる」現象

ボゴスト氏は、進歩そのものを否定しているわけではない。Uberの利用、音楽ストリーミング、フードデリバリー。これらは確かに、私たちの生活を劇的に向上させ、多くの恩恵をもたらしてきた。しかし、その過程で、私たちは「カエルが茹でられる」ように、徐々に、そして静かに、感覚的な経験との接触を失ってきた。

この「カエルが茹でられる」という例えは、非常に的確だ。もし、冷たい水から急に熱湯にされたら、カエルは飛び跳ねて逃げるだろう。しかし、ゆっくりと温度が上がっていくと、気づかぬうちに茹でられてしまう。私たちの生活における「非物質化」も、これに似ているのかもしれない。テクノロジーの進化は、最初は心地よい利便性としてやってくる。しかし、それが徐々に私たちの感覚を麻痺させ、いつの間にか、本来持っていたはずの「質感」を剥ぎ取ってしまうのだ。

コーリー・ドクトロウのような、経済システムやテクノロジーを問題の根源とする批判的な視点も存在する。しかし、私たちは一方でAmazon Primeのような利便性も享受している。この、矛盾した感情や状況を、ボゴスト氏は冷静に捉えている。

■「間違った目標」を追うシリコンバレーへの問いかけ

シリコンバレーの企業は、利便性、スピードといった目標ばかりを追求し、「間違った目標」を追っているのではないか。この疑問に対して、ボゴスト氏は、効率性、自動化、透明性、そして規模への執着が、この傾向を駆動していると指摘する。

Uberの例で言えば、利便性は確かに生活を向上させた。しかし、その過程で、私たちは「取引」の全貌を、そしてそれを実現するために失われた、あるいは軽視された肉体的、身体的な存在であることを、十分に考慮してこなかった。特にシリコンバレー的な文化は、肉体的な経験を超越しようとする傾向があり、それは誤りだとボゴスト氏は断じる。

我々テクノロジー愛好家は、新しい技術やサービスが登場すると、その機能性や効率性、そして「未来感」に目を奪われがちだ。しかし、その裏側で、何が失われているのか、そしてそれが私たちの感覚や実感にどのような影響を与えているのか、という視点を持つことが重要だ。

■「行うことの経験」を取り戻すために

起業家や製品開発者に対して、ボゴスト氏は、利便性だけでなく、摩擦や感覚的な経験とのバランスを考慮した製品開発を提案する。これは、単に物事を難しくしたり、障害を設けたりすることではない。それは、自身が「それを行っている」という感覚を体験すること、つまり「行うことの経験」を重視することだ。

コンピュータがデータ分析ツールから文化ツールへと移行した1960年代には、人間的な関わりが重視されていた。しかし、2000年代以降、計算による文化の浸食が進むにつれて、このプロセスから離れてしまった。現代では、結果、あるいは自動化やAIによる解決が重視されがちだが、ボゴスト氏は、それらの「行うことの経験」こそが、人間らしさ、生きている実感を与えてくれると主張する。

UXデザインの現場でも、表面上は「ユーザー体験」を重視しているように見えても、実際にはその体験を剥ぎ取っていることに気づいていないケースがある。私たちは、いかにして、この「行うことの経験」を、テクノロジーとの関わりの中で取り戻していくことができるのだろうか。

■ノスタルジアではなく、現在への再接続

自身の経験に基づいた感覚的な議論は、ノスタルジアに陥りがちではないか、という懸念もあるだろう。しかし、ボゴスト氏は、過去に戻ることはできないと明言する。過去を嘆くことは、自己を方向づけるのに役立つかもしれないが、人生を生きる助けにはならない。

古い電話機への愛着を例に挙げ、ノスタルジアは、現在の感覚的な生活への向き合い方を理解するための「興味深い信号」でありうるが、過去に生きることは「贅沢」だと述べる。これは、過去の良き時代への郷愁に浸るだけでなく、その時代に存在した感覚的な豊かさを、現代にどう活かしていくか、という建設的な視点を示唆している。

■「摩擦」の再導入:困難さではなく、実感へ

「摩擦」の再導入についても、ボゴスト氏は慎重な姿勢を示す。物事がスムーズになりすぎたことで、摩擦という概念が強調されているが、単に物事を難しくしたり、障害を設けたりすることが目的ではない。それは、自身が「それを行っている」という感覚を体験することであり、「大変であるべきだ」ということとは異なる。

例えば、自分でコーヒー豆を挽いて、丁寧にドリップする。その一連のプロセスには、豆の挽き具合、お湯の温度、抽出時間といった、ある程度の「摩擦」がある。しかし、それは決して苦痛ではなく、むしろ、自分自身が「コーヒーを淹れている」という実感を与えてくれる。この、能動的な関与から生まれる感覚的な充足感こそが、失われつつある「質感」を取り戻す鍵となるのではないだろうか。

■希望の光:日常の「小さなこと」から始まる変化

社会の変化と「小さなこと」の関係について、ボゴスト氏は、私たちの生活が感覚経験から切り離され、非物質化しているという事実は認めるものの、物理的、感覚的な喜びや満足感の島が、消滅してしまうという悲観論には与しない。

彼は、大きな社会変革を待つのではなく、普通の人々が今、この瞬間にできることに焦点を当てるべきだと主張する。産業界や政府のリーダーたちにも、より「小さなこと」に重点を置いた、より満足感のある機会を構築してほしいと願っている。

リモートワークやオフィスワークのあり方についても、組織のリーダーは、人々が日々何を行っているのか、どのように行っているのかをある程度コントロールできると指摘する。そして、隣人や家族であっても、日々の感覚的な生活において、何かできることがあるはずだと示唆している。Facebookで嘆くのではなく、今できることに焦点を当てるべきなのだ。

テクノロジーは、私たちの人生を豊かにする可能性を秘めている。しかし、その恩恵を最大限に享受するためには、私たちは、テクノロジーとの関わり方を見直し、失われつつある「手触り」や「質感」を、意識的に取り戻していく必要がある。イアン・ボゴスト氏が提唱する「小さなこと」への注目は、テクノロジー愛好家である我々にとっても、日々の生活をより深く、より豊かにするための、実践的な指針となるだろう。さあ、あなたも、身近な「小さなこと」に目を向けて、失われた感覚を、この手で取り戻してみないか。

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