ハガレン初見の地獄!推しの死で心折れた私が絶望から這い上がる方法

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こんにちは、普段は心理学とか行動経済学、あとは統計データなんかを眺めながら、世の中の事象をちょっとマニアックに分析している者です。今回はですね、ネットのタイムラインで見かけた、ある「今更ハガレンを読み始めた人の絶叫」について、科学的なレンズを通してじっくりと考察してみたいと思います。

今更『鋼の錬金術師』、いわゆるハガレンを読み始めたその人は、まだたったの5巻あたりだというのに、すでに心に深い傷を負い、絶望と恐怖に震えながらも、なぜかページをめくる手が止められないという、非常に興味深い状態に陥っています。ネットのミームで知った「勘の良いガキは嫌いだよ」のえぐさに面食らい、スカーの暴力に怯え、そして何より、みんな大好きヒューズ中佐のあまりにも早すぎる退場によって、精神的K.O.を食らっているわけです。

フォロワーたちが生暖かく、いや、むしろニコニコ顔で「通れ…新参だ…」とばかりにその苦悩を見守っている様子も含めて、これ、人間の心理や行動原理、そして経済学的な「サンクコスト効果」や、物語体験における「認知的不協和」の観点から見ると、めちゃくちゃ面白いデータ(ケーススタディ)の宝庫なんですよ。

■なぜ私たちは「痛いと分かっている物語」にハマってしまうのか

まず心理学的に一番気になるところからいきましょう。人間って本来、本能的に「苦痛」や「恐怖」「悲しみ」を避ける生き物です。危険な目に遭いそうな状況からは逃げ出すのが生存戦略として正しいはずなのに、私たちはなぜか、わざわざお金を払って、あるいは時間をかけて、心臓がえぐられるような悲劇を描いたフィクションを愛好します。ハガレンなんてまさにその代表例で、読者のHP(ヒットポイント)をゴリゴリ削ってくることで有名です。

これには「モルヒネ効果」ならぬ、脳内麻薬のメカニズムが深く関わっています。心理学の研究によると、私たちは恐怖や悲しみといった強いストレスを受けると、脳内でエンドルフィンやドーパミンといった神経伝達物質が分泌されます。特に、物語の中でキャラクターが理不尽な苦難に直面し、それを乗り越えようとする姿や、あるいは救いのない絶望を目の当たりにしたとき、私たちの脳は一種の「カタルシス(浄化作用)」を体験します。

さらに、行動経済学の観点を混ぜてみましょう。人間には「損失回避性」というバイアスがあります。自分が投下した時間や、受けた精神的ダメージ(これを投資と捉えるのも変ですが)が大きければ大きいほど、「ここでやめたら損だ」「この痛みの意味を最後まで見届けなければ回収できない」という心理が働きます。5巻の時点でヒューズ中佐という特大の推しを失い、「こんなの聞いてない!」と絶望しているにもかかわらず、「ここからあと20巻以上あるのか…」という絶望と恐怖の裏返しとして、「でも続きが気になって仕方がない」という強烈なモチベーションが生まれているのは、まさにこの経済学的・心理学的トラップに綺麗にハマっている証拠なんです。

■「いっちゃん痛いタイミング」を狙う原作者の悪魔的な心理誘導

この投稿者が一番震えているのが、原作者である荒川弘先生の「読者のいっちゃん痛い部分をいっちゃん痛いタイミングで的確に刺しに来る」という容赦なさですよね。これ、統計学やゲーム理論の観点から見ても、非常に洗練された(そして読者にとっては残酷な)「エンゲージメント最大化のアルゴリズム」に基づいていると言えます。

もし物語の序盤がずっと平和で、ほんわかした日常だけを描いていたとしたらどうでしょうか。読者は安心して読み進められますが、脳の覚醒水準は低いままです。心理学の「アロージョの法則」や、マーケティングにおける「ピーク・エンドの法則」というものがあります。人間は、経験した出来事の全体的な印象を、その「最も感情が揺さぶられた瞬間(ピーク)」と「終わり方(エンド)」だけで記憶する傾向が強いという法則です。

荒川先生は、物語の極めて早い段階(まだ世界観に慣れていない5巻という序盤)で、愛妻家で最高に良い奴であるヒューズ中佐の死という、読者の感情の「ピーク」を意図的に、かつ暴力的なまでに精巧に配置しました。これにより、読者の脳内には強烈なアンカリング(初期値への強いこだわり)が発生します。「この世界は油断すると本当に大切なものが容赦なく奪われる場所だ」という恐怖が刻み込まれると同時に、その恐怖が逆に、その後の展開への異常なまでの没入感を生み出すのです。

統計的に見ても、万人受けする予定調和な物語よりも、予測不可能性と高低差(ギャップ)が大きい作品の方が、口コミ(SNSでの拡散力)が圧倒的に高くなることが知られています。この投稿者がリアルタイムでSNSに叫び声を上げ、フォロワーたちがそれを観測して盛り上がっている現象そのものが、ハガレンという作品の持つ「感情の振れ幅の大きさ」が引き起こした、美しいまでのネットワーク効果の証明なんです。

■推しの死を乗り越える「認知の再評価」と防衛機制

さて、大きなショックを受けた人間は、次にどう行動するでしょうか。精神医学や心理学の防衛機制において、人は大きなショックを受けると、まずは「否認(そんなはずはない)」や「怒り(どうしてこんな酷いことをするんだ)」の段階を経ます。今回の投稿者も、「どうして?」「慈悲がない」と見事にそのプロセスをたどっています。

しかし、人間はそこで終われません。認知的不協和(自分の理想や期待と、現実の残酷な結果との間に生じる不快感)を解消するために、脳はストーリーを自分の中で再構築しようとします。投稿者がショックを受けつつも、「前向きに生きような、ヒューズさんの仇は俺が討ちます」と、まるで自分が調査兵団か何かのような強い決意表明をし、ウィンリィの健気さに救いを求め、師匠の圧倒的な強さとエドの「まだ15歳の子供である」という現実のギャップに目を向けるようになったのは、まさにこの「認知の再評価」のプロセスそのものです。

人間は、理不尽な悲しみに直面したとき、ただ打ち拉がれるだけではなく、そこに「意味」を見出そうとする生き物です。ヒューズの死という圧倒的な不条理を、エドやアル、そして自分自身の「物語を読み進める原動力(モチベーション)」へと変換することで、心のバランスを保とうとしているわけですね。これこそが、私たちがフィクションから得る最大の精神的レジリエンス(回復力)のトレーニングかもしれません。

■若い才能と過酷な運命の狭間で揺れる心理

物語はさらに進み、屈強で圧倒的な強さを持つ師匠(イズミ)が登場し、エドたちが無邪気に「子供はいないの?」と尋ねるシーンに差し掛かります。ここで投稿者は、彼らが背負っているあまりにも重い十字架の裏側にある、「それでもまだ15歳の子供である」という残酷で愛おしい真実に気づかされます。

この心理描写の巧みさについても、発達心理学の観点から少し考えてみましょう。人間の脳の前頭葉、特に論理的思考や長期的なリスク評価を司る部分は、実は20代半ばまで完全に発達しないと言われています。15歳という年齢は、社会的にはまだ十分に子どもでありながら、大人のような過酷な選択を迫られ、重すぎる責任を背負わされる時期です。

エドたちが時折見せる子供っぽさや、逆に無理をして大人ぶる姿は、発達段階における「アイデンティティの確立(エリクソンの発達段階説)」の時期特有の葛藤そのものです。読者は、彼らのその危うい姿を見るとき、自分のなかの「失われた子供時代」や「かつて直面した理不尽な大人社会とのファーストコンタクト」を無意識に投影します。だからこそ、痛いと分かっていても、彼らがどう成長し、どう着地するのかを見届けずにはいられなくなるのです。

■「新参者」が味わう最高の知的・感情的エンターテインメント

今更ハガレンを読み始めたこの投稿者の悶絶ぶりをこうして科学的、経済学的、そして心理学的に分解してみると、私たちが物語を読むという行為がいかに複雑で、かつ人間らしい営みであるかがよく分かります。

私たちは、安全なリビングのソファや布団の中にいながらにして、脳内では極限のサバイバルを体験し、大切なキャラクターの死に涙を流し、その理不尽さに怒り、そして残された者たちの絆に希望を見出すという、感情のジェットコースターを楽しんでいます。サンクコストを支払い、認知的不協和に苦しみ、それでも得られる圧倒的なカタルシスを求めて次のページをめくる。これ以上の贅沢な知的・感情的エンターテインメントが他にあるでしょうか。

フォロワーたちが「ふふふ、まだ5巻か…地獄はここからだぜ」という顔で見守っているのも、行動経済学的に言えば、すでにその先の「真のピーク」を知っている者たちの優越感であり、同時に「初めてその強烈な体験をする喜び」を追体験している共感の表れでもあります。

まだ20巻以上あるという絶望と恐怖に打ち震えながらも、「前向きに生きよう」と誓ったこの投稿者が、この先待ち受ける数々の真実や、容赦ない試練、そしてそれらを乗り越えた先にある感動のエンディングにたどり着いたとき、脳内でどれほどのドーパミンが爆発し、どれほど深いカタルシスを得るのか。専門家の端くれとしても、思わずその読後感のデータを覗き見させてもらいしたくなるほど、実に美しく、そして人間臭いドラマだなと感じます。

物語の力、そしてそれを読み解く人間の心というのは、いつの時代も本当に科学的分析のしがいがある、最高にエキサイティングなテーマですね。それでは、新参の旅人が無事に最終巻まで生還できることを、画面の向こうからそっと祈りつつ、今回はこの辺りで考察を締めくくらせていただきます。

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