コロナ禍で単位クレーム!?企業が戦慄する「当たり前」が通用しない新社会人の現実

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■コロナ禍を生き抜いた新社会人に「当たり前」が通じない?心理学・経済学・統計学で読み解く世代のギャップ

最近、大学関係者や企業の人事担当者の間で、新社会人、特にコロナ禍で学生生活を送った世代に対するある種の戸惑いが広がっているという話を聞くことがあります。「授業に出席しないと単位がもらえない」「試験を受けないと単位が出ない」といった、本来であれば学生なら当然理解しているはずの単位取得の基本的な要件に対して、居然(あぜん)とするようなクレームを言う大学生が現れているというのです。これは、企業側にとっても、新入社員への対応に「覚悟が必要」だと示唆されており、無視できない問題として浮上しています。

この状況に対して、「単位は『取るもの』であり『もらうもの』ではない」「シラバス(授業内容や評価方法などが記載されているもの)を読まないのか」といった、もっともな指摘がなされています。しかし、なぜこのような事態が起きているのでしょうか。電子化の進展でシラバスを読まなくなった、あるいは「当たり前すぎて、わざわざ書く必要はないだろう」と、大学側が省略してしまった、といったケースも考えられます。

企業側で起きうる事態も、学生時代のクレームと驚くほど似ています。「リモート出社できないなんて聞いてない」「上司からの業務命令を期限内に実施しなければならないなんて知らなかった」といった、まるで学生時代の延長のような感覚で、社会のルールや期待を理解していない新入社員が現れる可能性が指摘されているのです。

これは一体、どういうことなのでしょうか。我々が当たり前だと思っている「当たり前」という概念が、コロナ禍で「当たり前」として教育されなかった、あるいは「当たり前」を封じられた世界で生きてきた世代の特性なのではないか、という見方があります。コロナ禍においては、感染防止という大義名分のもと、高校への通学、部活動や学校行事、友人との何気ない交流などが、これまで当然のように行われてきたことが、次々と制限されました。オンラインでの授業への切り替えや、一部授業内容のカットなど、さまざまな特別措置が取られました。その結果、知らず知らずのうちに、「自粛は正義、休校は当然」という価値観が、彼らの心の中に静かに、しかし確実に植え付けられていったのかもしれません。そして、その特別措置の期間が長引いたことで、本来であれば学生時代に自然と身につくはずの社会生活への移行が、スムーズにいかなくなっているのではないか、という指摘がなされています。

もちろん、若者を単に「堕落」や「放漫」と断じるのは早計です。彼らは、コロナ禍という未曽有の状況下で、多くの我慢を強いられてきた世代でもあります。その我慢とうまく折り合いをつけてきた、ある意味でたくましい若者とも言えるのです。世代全体を否定するような言動は、彼らの反発を招き、さらなる溝を生む可能性も否定できません。

SNSの普及も、この問題に一石を投じているかもしれません。SNS上では、自己主張のハードルが格段に下がりました。自分の意見や感情を容易に発信できるようになった一方で、それが「他責思考」や、意図せずとも攻撃的な言動につながってしまうケースも増えているのかもしれません。また、コロナ禍という「非常時」であったことを、彼ら自身が十分に理解しておらず、あたかもそれが「日常」であるかのように、ズルズルとダラダラと続けてしまったこと、そして、その後の社会生活へのスムーズな移行を促すための、学校や社会からのケアが不十分だったことが、現在の状況に繋がっているという指摘もあります。

しかし、これらの状況をすべてコロナ禍だけのせいにしてしまうのは、少し乱暴かもしれません。個人の特性という側面も、無視できません。これまでも、「新人類」や「バブル世代」といった言葉が生まれ、その時代の若者に対する懸念や期待が語られてきました。時代ごとに、若者に対する同様の論調や懸念は繰り返されてきた歴史があります。例えば、自身で考えて動けない「マニュアル人間」や「指示待ち」が増えた、と言われたのは、松下幸之助氏の年代でも同様だったという指摘もあります。このように、世代論だけで片付けてしまうのではなく、歴史は繰り返す、という視点も非常に重要なのではないでしょうか。

学校側の特別措置の説明不足や、保護者への丁寧な説明が欠けていたという責任も一部あるでしょう。しかし、SNSを巧みに利用しながらも、自身の状況を正確に理解できていない個人の資質の問題も、見逃すことはできません。こうした状況が、企業側の採用活動に影響を与え、「第二の就職氷河期」を招く可能性も懸念されているのです。

■「当たり前」の喪失と心理学:認知バイアスと学習理論からのアプローチ

さて、ここで心理学的な視点から、なぜ「当たり前」が通用しなくなっているのかを深く掘り下げてみましょう。

まず、「当たり前」という概念は、私たちの社会生活における学習プロセスの中で形成されていきます。これは、オペラント条件付けなどの行動主義心理学の考え方で説明できます。例えば、学校で「授業に出席し、試験を受ければ単位がもらえる」という行動をとると、「単位がもらえる」という報酬が得られます。この報酬が繰り返されることで、その行動が強化され、「授業に出席し、試験を受けること」が「単位をもらうための当たり前の行動」として学習されていくのです。

しかし、コロナ禍では、この学習プロセスに大きな断絶が生じました。本来であれば、感染防止のために「出席停止」や「試験方法の変更」といった「特別措置」が取られることは、あくまで「例外」であったはずです。しかし、その例外が長期間にわたり、「新しい当たり前」として提示されてしまった。

ここで重要なのが、「認知的不協和」という心理学の概念です。人は、自分の信念や行動、あるいは外部からの情報に矛盾が生じた際に、不快な心理状態(認知的不協和)を感じます。この不快感を解消するために、信念を変えたり、行動を変えたり、あるいは外部の情報を歪曲して解釈したりします。

コロナ禍で長期間、オンライン授業や特別措置が常態化された学生たちは、おそらく「本来の学習プロセス」と「コロナ禍での学習プロセス」との間に、ある種の認知的不協和を感じたはずです。しかし、その状況が続いたことで、「本来の学習プロセス」の記憶が薄れ、あるいは「コロナ禍での学習プロセス」が「新しい当たり前」として上書きされてしまった可能性があります。そして、コロナ禍が明けて「本来の学習プロセス」に戻ろうとした際に、再び認知的不協和が生じ、「なぜ元に戻るのか?」「これで良いのか?」といった疑問や不満が湧き上がりやすくなったのです。

さらに、「確証バイアス」も影響していると考えられます。確証バイアスとは、自分の持っている考えや信念を支持する情報ばかりを集め、それに反する情報は無視したり軽視したりする傾向のことです。コロナ禍で「自宅学習」や「オンラインでの学習」が中心だった学生たちは、その経験を通じて、「自宅で学習すること」や「オンラインで単位を取得すること」が容易である、あるいは効率的であるという信念を形成した可能性があります。そのため、コロナ禍が明けて「対面授業」や「試験」といった、従来通りの学習方法に戻された際に、その「新しい信念」を支持する情報(例えば、オンライン学習のメリットなど)ばかりに目を向け、従来の学習方法の重要性や、それがもたらす経験(友人との議論、直接的な質問の機会など)を軽視してしまう傾向が強まったのかもしれません。

■「指示待ち」と経済学:インセンティブ構造の変化と機会費用

経済学の視点からも、この「当たり前」のギャップを分析できます。

まず、「インセンティブ構造」の変化が挙げられます。経済学では、人々の行動は、その行動によって得られる報酬(インセンティブ)によって大きく左右されると考えます。コロナ禍では、学生に対して「通学しなくても、自宅にいながら単位が取れる」という、ある意味で非常に強力なインセンティブが与えられていました。これは、時間的、地理的な制約が大幅に緩和されたということです。

本来、大学教育における「単位」は、単に授業を受けたことへの「報酬」というだけでなく、その過程で得られる知識、スキル、そして社会性といった「付加価値」に対する対価として位置づけられるべきものです。しかし、コロナ禍での特別措置は、この「付加価値」を得るためのプロセスを、ある程度省略させてしまった側面があります。

「指示待ち」という言葉に注目すると、これは「自律性」や「主体性」の欠如として捉えられます。経済学で「機会費用」という概念があります。これは、ある選択をした場合に、それによって失われる他の選択肢の価値のことです。コロナ禍で、学生たちは「自宅で過ごす」という選択をすることで、通学や対面での活動といった、本来得られたはずの様々な機会を失いました。

本来であれば、学生時代は、授業を受けるだけでなく、友人との交流、サークル活動、アルバイトなどを通じて、多様な経験を積み、自己成長の機会を得る期間です。これらの活動は、直接的な「報酬」が伴わない場合でも、将来のキャリアや人生において非常に重要な「無形資産」を形成します。しかし、コロナ禍でこれらの機会が制限されたことで、学生たちは「指示されたことだけをこなす」ことへの慣れが、相対的に強くなってしまった可能性があります。

企業側で「リモート出社できないなんて聞いてない」「上司からの業務命令を期限内に実施しなければならないなんて知らなかった」といったクレームが出るのは、まさにこの「無形資産」の形成が十分でなかったことの表れと言えるでしょう。社会人になると、仕事には「暗黙のルール」や、明示されていなくても当然期待される行動様式が数多く存在します。これらは、経験を通じて学ぶべきものであり、マニュアルに書かれていることだけが仕事ではありません。しかし、コロナ禍で「明示されたルール」にのみ従うことに慣れてしまった世代は、こうした「暗黙のルール」への対応に戸惑いやすいのかもしれません。

■統計学で見る世代間の意識差:データが語る「当たり前」の変遷

統計学的な視点からも、この世代間のギャップを客観的に捉えることができます。

もし、過去の世代と現在の世代で、「授業への出席」「試験の受験」「上司の命令への従順さ」などに関する意識調査を、大規模かつ長期的に実施していたとすれば、そのデータは「当たり前」という概念がどのように変遷してきたかを明確に示してくれるはずです。

例えば、過去の調査で「単位取得には出席と試験が必須である」という項目に対する賛成率が90%を超えていたとします。しかし、現在の同様の調査で、コロナ禍で学生生活を送った世代に限定して質問した場合、その賛成率が有意に低下している、という結果が出るかもしれません。

これは、単に「甘やかされた」という言葉で片付けられる問題ではなく、社会全体の教育システムやコミュニケーション様式が、コロナ禍によって大きく変化した結果、人々の意識や価値観に影響を与えたと解釈できます。

また、SNSの利用状況や情報収集の方法に関する統計データも、この問題の背景を理解する上で役立ちます。例えば、特定の情報源(友人、SNS、学校からの公式発表など)からの影響度を比較することで、情報伝達の経路がどのように変化し、それが人々の「当たり前」の認識にどう影響したのかが見えてきます。

さらに、「他責思考」や「自己効力感」といった心理的な側面も、統計的な調査によって定量化できる可能性があります。例えば、「問題が発生した場合、その原因を自分以外に求める傾向」や、「困難な状況でも、自分なら解決できると信じる度合い」などを測定する質問項目を設定し、世代間の比較を行うことで、客観的なデータに基づいた議論が可能になります。

■未来への示唆:世代間の架け橋となるために

では、この「当たり前」のギャップにどう向き合えば良いのでしょうか。

まず、学校側と企業側は、コロナ禍で学生生活を送った世代に対して、より丁寧で具体的な説明責任を果たす必要があります。単に「これが当たり前だ」と突き放すのではなく、なぜそれが「当たり前」なのか、その背景にある論理や、社会全体で共有されているべき原則を、分かりやすく伝える努力が求められます。

心理学の観点からは、「スモールステップ」での指導が有効でしょう。いきなり高いハードルを設けるのではなく、段階を踏んで、徐々に「当たり前」のレベルを上げていくアプローチです。例えば、企業では、新入社員研修をより充実させ、業務の進め方、コミュニケーションの取り方、チームワークの重要性などを、実践的に学ぶ機会を提供することが重要です。

経済学の観点からは、インセンティブ設計を見直すことも考えられます。単に「指示されたことをこなす」だけでなく、主体的に考え、行動したことに対する報酬や評価を明確にすることで、新入社員のモチベーションを高めることができます。また、若手社員が、経験豊富な先輩社員から学ぶ機会を意図的に設けることも、無形資産形成の促進につながります。

そして何よりも大切なのは、世代間の相互理解です。若者世代を一方的に批判するのではなく、彼らがコロナ禍でどのような経験をしてきたのか、どのような価値観を形成してきたのかを理解しようと努める姿勢が不可欠です。同時に、若者世代も、これまでの社会が培ってきた「当たり前」や「暗黙のルール」の重要性を理解し、尊重する姿勢が求められます。

「第二の就職氷河期」といった悲観的な予測に終始するのではなく、この世代が持つユニークな視点や、コロナ禍で培われた柔軟性、そしてデジタルネイティブとしての強みを活かす方法を模索することが、未来への建設的な一歩となるはずです。彼らが社会にスムーズに適応し、活躍できるような環境を整えることが、私たち大人の責務と言えるでしょう。この「当たり前」のギャップは、単なる世代間の問題ではなく、社会全体の適応力と変化への対応力を問う、重要な機会なのです。

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