ベトナムのハノイで暮らしているミッチーさんという方が、日本から送った船便の荷物が海に落下してしまったという連絡を受け取ったというニュースが、SNS上で大きな話題になっているのを皆さんはご存知でしょうか。何気なく送った荷物が、まさか日本の海でコンテナごと沈んでいるかもしれないなんて、ドラマのワンシーンのようで現実味がないですよね。しかも、ミッチーさんは「どうせ何もないだろう」という軽い気持ちで、補償額をテキトウに書いてしまっていたため、もしもの時の補償に怯えているというおまけ付きです。この投稿には、多くの海外在住者や引っ越し経験者から「自分も適当に書いたことがある」「本当に海に落ちるなんて信じられない」といった共感や驚きの声が寄せられています。今回は、このクスッと笑えるけれど実は笑えない事件をきっかけに、私たちの脳がやりがちな「めんどくさいことからの逃避」と、それを経済学や統計学、そして心理学の視点から紐解いていきたいと思います。海外への引っ越しや通販、あるいは日々のちょっとした手続きで「テキトウに済ませて後悔した」という経験がある方なら、きっと最後まで面白く読んでいただけるはずです。
●人間の脳は「ありえないリスク」を完全に無視するようにできている
まず心理学の観点から、ミッチーさんが補償額をテキトウに書いてしまった行動について考えてみましょう。行動経済学や心理学の世界では、人間は確率が極めて低いリスクに対して、2つの極端な反応を示すことが知られています。ひとつは、宝くじのように「当たる確率は天文学的に低いのに、もしかしたら当たるかも」と過大評価してしまうパターン。そしてもうひとつが、今回のように「めったに起きない大事故(コンテナの海中落下など)なんて、どうせ自分の身には起きないだろう」と、その確率を完全にゼロとして見積もってしまうパターンです。これを確率加重関数という理論で説明することができるのですが、人間は面倒な書類手続きに直面したとき、脳の認知リソースを節約するために、ネガティブな低確率イベントを脳内から綺麗さっぱり消去してしまう傾向があります。国際郵便の面倒なインボイスや別送品申告書、そして補償額の記入欄を見たとき、ミッチーさんの脳内では「海に落ちる確率=ゼロ」という強烈なバイアスが働き、結果として「めんどくさいからテキトウに書いてしまえ」という経済学でいうところのモラルハザードに近い心理状態を引き起こしたわけです。これは決してミッチーさんがズボラだからではなく、人間という生き物が進化の過程で手に入れた、ある意味では省エネのための防衛本能のようなものなのです。しかし、その防衛本能が、三重県沖でのコンテナ落下という統計的なレアケースによって見事に打ち砕かれてしまったというわけですね。
●統計データから見る海上輸送のリアルと私たちが過小評価するもの
では、実際のところ船便の荷物が海に落ちる確率というのは、統計的にどれくらいの頻度で起きているものなのでしょうか。普段、私たちはAmazonや楽天で買い物をすれば商品が当たり前のように翌日に届き、海外からの荷物も飛行機や船で安全に運ばれてくるものだと思い込んでいます。しかし、海運業界の統計データを見てみると、私たちの想像以上にドラマチックなトラブルが日常茶飯事であることがわかります。世界海運評議会などのデータによると、世界中の海を移動しているコンテナの数は年間で数億個にものぼりますが、その中で荒天や座礁、船舶の事故などによって海中に落下するコンテナの数は、年間で数百個から数千個単位に達しています。数字だけ聞くと「数億分の一なら安全じゃないか」と感じるかもしれませんが、コンテナ船一隻あたりの積載量は膨大であり、一度嵐に巻き合えば数十個単位のコンテナが海に放り出されることは珍しくありません。今回のミッチーさんのケースでも、三重県沖で一度に23個ものコンテナが落下したという情報がありますが、これはまさに海洋輸送におけるテールリスク、すなわち「めったに起きないが、起きた時のインパクトが甚大な事象」の典型例です。統計学的に言えば、確率がゼロではない限り、十分な試行回数を経ればいつかは必ず発生するという大数の法則が、残酷にもここで働いてしまったと言えます。私たちは日常の安全性を過信しがちですが、地球規模の物流というダイナミックなシステムの上で暮らしている以上、こうしたリスクは常に私たちの足元に口を開けて待っているのです。
●補償額をテキトウに書く心理の裏にある経済学的な合理性
ここで興味深いのが、SNSのコメント欄でも話題になっていた「補償額の仕組み」に関する議論です。過去に調べた経験のあるユーザーの指摘によると、船便の補償は書類に記載した金額に関わらず、荷物の実際の重量に対して補償金が支払われる仕組みになっている場合があったり、逆に価値のある高価な物品を送るためには別途保険をかけなければならなかったりと、システムが非常に複雑です。さらに、高額な保険をかけると現地の税関で高額な税金を請求されたり、手続きの手間が増えたりするというジレンマもあります。この状況を経済学の視点から分析してみると、ミッチーさんが補償額をテキトウに書いた行為は、実は限定された情報の中では一定の経済合理性を持っていたと言えなくもありません。なぜなら、詳細な時価を調べて正確に申告するコスト(時間的・精神的コスト)と、万が一海に落ちる確率(低確率)にその金額を掛け合わせた期待値とを天秤にかけたとき、人間は無意識のうちに「正確に書くコストのほうが高い」と判断してしまうからです。これを経済学では取引費用と呼びますが、煩雑な行政手続きや国際郵便のルールは、私たちに多大な取引費用を強いるため、人々は適当に記入するという名の「手抜き」によってコストを最小化しようとします。しかし、今回の事件は、その手抜きによって節約したはずの小さなコストの何倍もの心理的・金銭的ダメージを、のちに回収されるという壮大な皮肉を見せつけてくれました。リスク管理の観点から言えば、これはコストの先送りに他ならなかったわけです。
●お金に換算できない「思い出」という非金銭的価値の重み
今回の事件のもうひとつの悲劇は、たとえ金銭的な補償がされたとしても、長年愛用してきたお金に代えることのできない私物が多く含まれているという点にあります。ここに、心理学における行動経済学の非常に面白い理論である「保有効果」と「心理的価値」の深い闇が潜んでいます。行動経済学の実験によれば、人間は自分が一度手に入れたものに対して、他人が持っている同じものよりも圧倒的に高い価値を感じる傾向があります。これを保有効果と呼びますが、特に海外赴任や移住の際に持っていく私物というのは、単なる物質としての価値を超えて、これまでの人生の記憶やアイデンティティ、家族との思い出がぎっしりと詰まっています。例えば、市場価値としては数千円の古びたマグカップであったとしても、新婚旅行で購入したものであれば、その心理的価値は無限大になり得ます。ミッチーさんが抱えている深い心配の色は、まさにこの「失われた私物の金銭的価値」ではなく「失われた私物に付随する非金銭的な思い出の価値」の大きさに起因しています。保険会社が支払う補償金というのは、あくまで市場における客観的な物品の価格をベースに計算されるため、私たちが心の中で勝手に膨らませた思い出の価値までは1円も補償してくれません。この、客観的価値と主観的価値の絶望的なギャップこそが、私たちが大切な荷物を失ったときに感じる痛みの正体なのです。
●不確実な世界で私たちが学ぶべきリスクとの向き合い方
ここまで、ミッチーさんの船便落下事件をきっかけに、人間の認知バイアス、海洋輸送の統計的リスク、経済学的な取引費用、そして保有効果による心理的価値について深く考察してきました。笑い話のようでいて、実は私たちの日常生活のあらゆる意思決定に通じる深い教訓が隠されていることがお分かりいただけたのではないでしょうか。私たちは日々の生活の中で、めんどくさい手続きや低い確率のリスクに直面したとき、どうしても「まあ大丈夫だろう」という楽観主義に流されてしまいがちです。もちろん、すべてのリスクに怯えてガチガチに対策していたのでは、人生のエネルギーがいくらあっても足りません。しかし、今回のように「失ったときのダメージが自分の人生にとって致命的になり得るもの」に関しては、少しだけ立ち止まって丁寧に向き合うことが必要不可欠です。海外への引っ越しや大切な荷物の発送など、人生の大きな転換期においては、面倒な書類書きや保険の選択をテキトウに済ませるのではなく、「未来の自分への投資」としてしっかりと時間と手間をかけるべきなのです。ミッチーさんの荷物が無事にコンテナの隙間から救出されることを祈りつつ、この記事を読んでくださった皆さんも、次に何か大切なものを送る機会があれば、ぜひ「海に落ちる確率」と「思い出の価値」をちょっと思い出して、丁寧な手続きを心がけてみてくださいね。人生は何が起きるか本当にわからないからこそ、日々の小さな選択を大切にしていきましょう。

