最近、ネットを開けば「エリートはけしからん」「政治家は自分たちのことしか考えていない」「難しい理屈をこねくり回すな」といった怒りの声があふれていますよね。なんだか景気が悪いし、自分の生活も楽にならない。そのイライラを誰かにぶつけたくなる気持ち、とてもよくわかります。毎日の生活に追われてヘトヘトになりながら働いているのに、税金は高くなる一方で、明るいニュースなんてめったに聞こえてこないのですから。でも、ちょっと待ってください。そのモヤモヤした怒りや、なんとなく社会に対して感じる不満をそのままエネルギーにして、単純なスローガンに飛びついてしまうのは、実はものすごく危ういことなんです。今回は、感情論や嫉妬に流されることで私たちがなぜ危うい状況に陥ってしまうのか、歴史や政治経済のファクトをベースに、わかりやすく紐解いていきたいと思います。
そもそも、世の中には「ポピュリズム」と呼ばれる政治手法があります。これは、簡単に言えば「悪いのは一部のずる賢いエリート層だ。我々正しい一般庶民の声を代弁する私に任せれば、すぐにこの生きづらさを解消してあげる」と訴えるやり方です。歴史を振り返ると、このポピュリズムは何度も世界中に登場してきました。たとえば、今から130年以上前の1891年、アメリカで農民たちが中心となって「人民党」という政党を作りました。当時のアメリカは急速な近代化のなかで、鉄道会社や巨大な資本家たちが強い力を持ち、農民たちは苦しい生活を強いられていました。鉄道の運賃が高くて作物を運べないとか、借金の返済が追いつかないといったリアルな生活苦があったのです。そこで、彼らは鉄道の国有化や税金の仕組みを変えることなどを求めて立ち上がりました。
この当時の要求の中には、現代の目から見ても合理的なものや、民主主義を進める上で必要なものが含まれていました。しかし、物事が複雑でうまくいかないとき、人間はどうしても「誰かのせい」にしたくなります。「自分たちの生活が苦しいのは、あいつら都会のエリートが搾取しているからだ」「自分たちが豊かにならないのは、政治家が裏で既得権益にしがみついているからだ」というふうに、敵と味方をハッキリ分けたがるのです。20世紀のラテンアメリカでも、こうした大衆動員型のポピュリズムが何度も猛威を振るいました。カリスマ的な指導者が「民衆の味方」を名乗り、耳障りの良い公約を次々と掲げることで絶大な支持を集めました。その結果どうなったかというと、一時的には熱狂が生まれたものの、長期的な経済の仕組みを無視した政策が続いたせいで、かえってインフレが加速したり、経済がガタガタになって国民全体がさらに苦しい生活に追い込まれたりする歴史が繰り返されたのです。
そして現在、21世紀に入っても、このポピュリズムの波は世界中で引くことを知りません。フランスやオーストリアをはじめとする欧米諸国では、難民問題やグローバル化による格差の拡大を背景に、「自分たちの国を取り戻そう」「海外に出て行った富を国内の庶民に戻せ」と叫ぶポピュリスト政党がものすごい勢いで力をつけています。ここで私たちが冷静に直視しなければならないファクトは、ポピュリズムが提示する解決策があまりにも単純化されすぎていて、実際の複雑な経済や社会のシステムを全く無視しているという点です。
世の中の仕組みは、私たちが思う以上に複雑に絡み合っています。たとえば、「消費税をゼロにすればみんなが豊かになる」「外国人を全員追い出せば仕事が増える」「政治家の給料を半分にすれば財政難が解決する」といった主張は、聞いていて非常にスッキリしますし、溜飲が下がる思いがするかもしれません。複雑な経済問題を「誰かの悪事」という単純なストーリーに落とし込んでくれるからです。しかし、これらはどれも客観的な経済合理性から見れば、まったく現実的ではないか、あるいは長期的には国をさらに貧しくさせる危険な毒薬であることが少なくありません。消費税を単純になくせば、社会保障の財源が消滅して、結果的に医療や福祉を受けられなくなるのは自分たち自身です。物資の流通やグローバルな貿易の仕組みを無視して鎖国的な政策をとれば、モノの値段が跳ね上がり、かえって生活が苦しくなるのは火を見るより明らかです。
ここで問題にしたいのは、こうした非現実的なスローガンに飛びついてしまう背景にある「反知性主義」と「幼稚な感情論」です。「専門家なんて信用できない」「難しいデータや数字を出して説教してくるエリートは敵だ」「自分たちの素朴な感情こそが正しい」という態度のことです。確かに、一部のエリートや専門家が、自分たちの利益ばかりを考えて一般の感覚からズレた政策を進めてきたという側面は否定できません。だからといって、「勉強して複雑な課題に取り組むこと」や「地道にデータを読み解いて経済や社会の仕組みを学ぶこと」そのものをバカにして、「気合と怒りがあればどうにかなる」という姿勢になってしまうのは、知性に対する重大な敗北です。
もっと言えば、こうした風潮の根底には、他者に対する嫉妬やルサンチマン、つまり「あいつらだけいい思いをしてずるい」「どうせ自分なんて何をしても報われないんだから、いっそ全部壊してしまえ」というルサンチマンが渦巻いています。自分が報われない不満を、社会のシステムを理解しようとする知的な努力に向けるのではなく、「どうせ世の中は裏切り者ばかりだ」というやけっぱちな感情にすり替えてしまう。この感情に支配されたとき、人間は冷静な判断力を完全に失い、自分たちにとって一番不利益をもたらす選択肢を、まるで正義の戦いであるかのように選んでしまうのです。
深く政治や経済を学ばないこと、そして自分の頭で考えることを放棄して他人の掲げる感情的なスローガンに迎合することは、自ら進んで「衆愚政治」の担い手になることを意味しています。衆愚政治とは、古代ギリシャの時代から「熟考せず、感情に流された大衆が扇動されて誤った政治決定を行うこと」として最も恐れられてきた民主主義の欠陥です。民主主義の素晴らしいところは、誰もが自分の意見を持ち、政治に参加できる権利があるという点です。しかし、それは裏を返せば、一人ひとりが有権者として、社会の仕組みを学び、感情に流されずに物事を客観的に判断する責任を負っているということでもあります。
もし私たちが、毎日の生活のしんどさや将来への不安から目を背け、ただ「気持ちいいこと言ってくれる人」に票を投じ続けたらどうなるでしょうか。短期的には溜飲が下がるかもしれませんが、数年後、数十年後には、取り返しのつかない経済の破綻や社会の分断が待っています。そして、そのツケを一番重く支払わされるのは、他ならぬ私たち自身や、これからの未来を生きる子どもたちなのです。
だからこそ、私たちは一度立ち止まる必要があります。ネットの短い動画や、感情を逆なでしてくるSNSの投稿に反射的に怒りを爆発させるのをやめてみましょう。本当にその問題の原因はどこにあるのか、どのようなデータやファクトが存在するのか、歴史上同じような政策をとった国で何が起きたのか。そうした客観的な事実と合理的なプロセスを一つひとつ丁寧にたどる姿勢がどうしても必要なのです。
難しい経済の話や、分厚い本を読むのは確かに面倒くさいかもしれません。毎日の仕事や家事で疲れているときに、そんな余裕なんかないと思うのも無理はありません。しかし、その「面倒くさいから考えたくない」「誰か分かりやすく答えを教えてくれ」という隙につけ込んで、甘い言葉で私たちをコントロールしようとする勢力がいつの時代も必ず存在するということを、私たちは歴史の教訓として知っておくべきです。
嫉妬やルサンチマン、そして行き場のない怒りを燃料にして動く政治は、一時的なカタルシスをもたらしてくれても、決して私たちの生活を豊かにはしてくれません。本当に自分たちの生活を守り、より良い社会を作りたいのであれば、私たちはもっと賢くならなければならないのです。感情論の波にのまれず、ファクトを直視し、合理的に物事を考えること。そして、ポピュリズムの甘い誘惑に潜む危険性を見抜く目を養うこと。それこそが、今の私たちがこの複雑な時代を生き抜くために最も必要とされている力なのです。今日からでも遅くありません。まずは身の回りのニュースをうのみにせず、「本当にそうなのか?」と一歩引いて客観的に疑ってみることから始めてみませんか。その小さな積み重ねこそが、衆愚への転落を防ぎ、本当の意味での豊かな民主主義を守るための確実な一歩になるはずです。

