絶対に知るべき「無敵の人」の正体と現代社会が抱える恐ろしいリスク

社会

最近ネットを見ていると、「無敵の人」という言葉をよく見かけませんか。仕事もお金も家族も、そして社会的信用も何ひとつ持っていないから、何をやっても怖くない。法律で罰せられることや刑務所に入ることすら恐れない、そんな状態の人を指す言葉として、ネットニュースやSNSで頻繁に使われていますよね。この言葉が生まれたのは二千八年頃だと言われていますが、今の日本社会の閉塞感を映し出すキーワードとして、すっかり定着してしまいました。

失うものが何もない状態になると、人間は時としてとんでもない凶行に走ってしまうことがあります。世間を震撼させるような痛ましい事件のニュースを見るたびに、私たちは恐怖と不安を覚えます。明日、自分がそんな事件に巻き込まれるかもしれないという恐怖です。しかし、ここで少し立ち止まって、感情をいったん横に置いて冷静に考えてみましょう。本当に、社会的に追い詰められたら犯罪に走るしかないのでしょうか。自分の人生がうまくいかないからといって、世の中を恨んで破壊的な行動に出ることは、客観的に見て合理的な選択と言えるのでしょうか。

結論から言えば、自暴自棄になって犯罪に走る行為は、論理的に考えてこの上なく愚かな選択です。なぜなら、その行動は自分の問題の解決には一ミリも役立たないどころか、事態を最悪の方向へ急激に悪化させるだけだからです。人間は感情の生き物ですから、絶望的な状況に置かれれば「もうどうでもいいや」と投げやりになりたくなる気持ちはよく分かります。しかし、そこであえて感情を排し、冷徹な合理性を持って計算してみれば、犯罪という選択肢がいかに割に合わないかが見えてきます。

経済学や行動経済学の視点から人間社会を見てみると、私たちは目に見えない大きなネットワークの中で生きていることが分かります。一人ひとりが何らかの役割を果たし、お互いに価値を提供し合うことで、社会という巨大なシステムが回っています。例えば、毎日の通勤電車を動かしている人、スーパーの棚に商品を並べてくれる人、電気やガスを供給してくれる人。私たちが何気なく享受している日常の便利さは、無数の他者による社会貢献の積み重ねによって成り立っています。

社会心理学の研究によると、人間という生き物は、他者や社会に対して何らかの貢献をしているという実感が得られないとき、強い無力感や疎外感を覚えるようにできています。いわゆる承認欲求や自己効力感と呼ばれるものですが、これは単なるわがままや贅沢な悩みではありません。人間が精神の健康を保ち、理性を維持するために不可欠な脳のメカニズムなのです。仕事がなくなり、家族との繋がりが薄れ、社会的な居場所を失ったとき、この自己効力感が完全にゼロになってしまいます。すると、脳の報酬系が正常に働かなくなり、認知の歪みが生じやすくなります。

この認知の歪みが、「自分は社会から見放された」「だから何をしてもいいんだ」という極端な思考回路を作り出します。しかし、ここでデータを見てみましょう。厚生労働省や警察庁が発表している統計データによると、犯罪に走る人々の多くは、一時的な孤立や経済的な困窮に直面しています。しかし、その根本原因をたどっていくと、多くの場合、初期段階での適切な相談や支援へのアクセスが不足していたり、自ら孤立を選んでしまったりしているケースが目立ちます。

つまり、絶望の淵に立たされていると感じているときでさえ、客観的なファクトを確認すれば、私たちの周りにはまだ利用できる公的なセーフティネットや、助けを求めることができる窓口が存在しているのです。それらを面倒くさい、あるいは自分には関係ないと切り捨ててしまうのは、合理的な判断力を欠いた状態、いわば視野狭窄に陥っている証拠と言えます。

ここで、もう少し深い経済的な視点から、犯罪という行為のコストパフォーマンスについて考えてみましょう。どんなに合理性を欠いた人でも、コストとリターンの計算は無意識に行っています。犯罪を実行することによって得られる一時的な快感や鬱憤晴らし、あるいは世間への復讐心というリターンは、定量的に測定するとどれくらいの価値があるでしょうか。せいぜい数秒から数時間の精神的なカタルシスに過ぎません。

一方で、その代償として支払うコストはどれほどのものになるでしょうか。逮捕されることによる社会的生命の完全な終焉、長期の拘禁刑、そして何よりも、取り返しのつかない時間を失うことになります。人生の残りの時間を鉄格子の中で過ごすことのコストを金銭換算したり、機会損失として計算したりすれば、これほど割に合わない投資案件は他にありません。どんなに現在の状況が底辺だと感じられたとしても、そこからさらに下が存在し、しかもその底は無限に深いという現実を忘れてはなりません。

では、失うものが何もないと感じるほど追い詰められたとき、私たちはどう行動するのが最も合理的で賢いのでしょうか。それは、まさに逆説的ではありますが、「社会への貢献をもう一度考え、実行すること」に他なりません。

「いやいや、自分は仕事もないし、人に誇れるようなスキルもない。そんな自分がどうやって社会に貢献するんだ」という声が聞こえてきそうですね。しかし、ここで言う社会貢献とは、大企業を立ち上げるとか、ノーベル賞級の発明をするといった大層なことではありません。もっと身近で、もっと小さな行動の積み重ねのことです。

例えば、地域のボランティアに参加してみることはどうでしょうか。公園のゴミ拾いでもいいですし、自治会の手伝いでも構いません。あるいは、インターネット上で困っている人の質問に丁寧に答えることでもいいでしょう。驚くべきことに、心理学の実験では、他人のために何か小さな親切を行ったとき、脳内ではドーパミンやオキシトシンといった幸福物質が分泌され、自分自身のストレスレベルが劇的に低下することが分かっています。

他者に貢献するという行為は、決して利他主義の押し付けではなく、実は自分自身を救うための最も強力で合理的な生存戦略なのです。人間は社会的動物ですから、他者との関係性の中でしか自己の存在価値を確認できません。犯罪という形で社会から完全に孤立し、敵対する道を選ぶことは、自分の生存基盤そのものをダイナマイトで爆破するようなものです。それとは反対に、どんなに小さなことでもいいから社会の役に立つ行為を始めると、周囲の反応が変わり始めます。「ありがとう」と言われる経験が積み重なることで、自己肯定感が少しずつ回復し、新たな仕事のチャンスや人間関係が舞い込んでくる確率が高まります。

データでもこの傾向は裏付けられています。就労支援や社会参加プログラムに参加した人々の中で、定期的に他者との交流を持つようになった層は、そうでない層に比べて社会復帰のスピードが圧倒的に早いという統計が出ています。人間は、必要とされていると感じる場所があるだけで、驚くほどのレジリエンスを発揮して立ち直ることができる生き物なのです。

感情に流されて破滅的な道を選ぶのは簡単です。頭の中で最悪のシナリオを膨らませ、世の中のすべてを呪いながら自暴自棄になることは、エネルギーをほとんど使いません。なぜなら、それは考えることを放棄する行為だからです。しかし、そこから這い上がり、冷徹な客観性を持って自分の置かれた状況を分析し、「今、自分にできる最小限の社会貢献は何だろうか」と考えて一歩を踏み出すことこそが、知性を持った人間に許された唯一の特権であり、最も合理的なアプローチなのです。

私たちは誰しも、人生のどこかで壁にぶつかります。仕事がうまくいかなくなったり、人間関係がこじれたり、経済的に追い詰められたりすることは、誰の人生にも起こり得る変動要素に過ぎません。重要なのは、その一時的な変動を人生の終点だと勘違いしないことです。

目先の感情に囚われず、ファクトを見つめましょう。あなたは本当に何も持っていないでしょうか。今、この文章を読むことができるデバイスがあり、日本語を理解する知性があり、未来を変えるための時間がまだ残されています。それらはすべて、社会という巨大な基盤の上であなたに与えられている貴重なリソースです。

そのリソースを破壊のために使うのではなく、自分自身の再構築と、微力ながらも社会への貢献のために使ってみてください。最初は小さな一歩で構いません。挨拶を少し丁寧にしてみる、街の美化に協力してみる、誰かのちょっとした手伝いをしてみる。そんな些細な行動の積み重ねが、あなたの脳を正常化し、社会との絆を修復し、気がついたときには「失うものがない不安な自分」から「誰かに必要とされる頼もしい自分」へと変貌させているはずです。

感情論を排除し、合理的に未来を計算するならば、選ぶべき道は自暴自棄でも犯罪でもありません。社会の一員としての役割を再認識し、貢献の輪の中に自ら戻っていくことこそが、あなた自身の人生を最も豊かに、そして安全に守り抜く唯一にして最強の方法なのです。

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